新宿に「戻る」

 渋谷区の文化学園から臨むパークハイアットなどのビル↓
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 昨日は久しぶりに新宿に行きました!
 そして、奈良興福寺の文化講座に参加! 5ヶ月ぶりだ!
 西武新宿駅から新宿エリアに思えるけれど住所は渋谷区の会場の文化学園まで元気に歩いて、講座の後はカフェでひとりごはんをして、駅ビルで軽くウインドーショッピングをして、帰りの下り電車では座らず立ったまま地元まで戻った!
 戻った!
 戻れた!
 戻ってない!
 戻ったことにしたくない! 
 ガンの治療を乗り越えて来たのだもの(不完全だったかもしれないけど。。)、「戻った」んじゃなくて、なにがしかで「進んだ」のだと、思いたい。。。
 でも、そうなるかどうかは、わたしの心構え次第なんですよね。。。

 「すべては心が創っている」というのは、興福寺さんで教えていただいている「唯識仏教」の考え方です。
 前世紀末に起こったニューエイジムーブメントでそういうことが言われる1500年も前から、日本では1300年以上前から、そういう考え方があったんですよ。その考え方を知った人たちが、当時の法律を創ったり、全国に国分寺とかを創らせているのですよ。
 そういう考え方(「仕組み」の説明でもある?)を今でも護って伝えてくださっているのが、興福寺さんなのであります。法相宗といいます(奈良の薬師寺さんも法相宗です)。
 わたしはこの「考え方」にとても共鳴しています。
 はじめて「唯識」を知ったとき、「ああ、こんな昔から、ちゃーんと説明されてたんだ」と、驚いたと同時に拍子抜けして(無知だから、「心がすべてを創る」というのはニューエイジな最近の人が行き着いた答えなんだと思ってた)、その教えを護ってきたのが日本の古都奈良なのだという事実に、頼もしいなあ、誇らしいなあという嬉しさも抱いたものでした。
 それは、沸き上がる嬉しさだった。

 その興福寺さんの、普段は北円堂におられる、その「唯識仏教」を起こしたインドの世親菩薩様・無著菩薩様の立像を含めた、仏師運慶や慶派の仏師たちの仏像を集めた展覧会が、9月26日から上野の東京国立博物館で開催されるそうです。
 ぜひ行かなくては! 激混みしそうだけど!
 展覧会「運慶」のサイトは こちら です。

 なんだか話を聞いていると、この展覧会、1回行くだけではダメそうだ。。展示の入れ替えもあるらしいし。。。
 思えば上野にもずっと行っていないな。。上野自体にも行きたいな。。。上野も好きさ。。。

 このようなことを考えていると、治療前の自分が「戻って」きたように思えます。 
 でも、やはり戻ったんじゃなくて、少しは変わったと思いたい。

 明日は夫と、興福寺さんの中金堂再建のための勧進能を観に、国立能楽堂に行くのでした。
 そういえば、上野でされる運慶展も、興福寺さんの中金堂再建記念特別展だとのことです。この展覧会では、興福寺さん以外のお寺からも運慶作の仏像が出展されるそうで、そのように「集結させるパワー」があるようです。
 それってなんかもう、「お祭り」じゃないけれど、、、すごいことですね。単なる展覧会ということではなくて、単なるお能の公演ということではなくて、大きな仏教的な事業だということでしょうか。
 そんな時期にご縁をいただいていること、ありがたいなあと思っています。

 ***

 そんな久しぶりの新宿と興福寺さんの文化講座で嬉しい気分になったゆうべでしたが、今日は海外アーティストの自死のニュースに少しショックを受けました。
 あまり詳しくないバンドですが、リンキン・パークのボーカルの方だとか。。
 YouTubeでその音楽をいくつか聴いてみましたが、繊細そうな方ですね。傷つきやすそうっていうか。。子供時代に性的虐待を受けていらしたとか。。
 以前よりこのようなニュースを悲しく思うようになっています。歳ですかね。。

 富と名声を得ても幸せとは限らないんですね、ほんとに。。
 「成功」ってなんだろう、とも思います。

 レスト・イン・ピース、チェスターさん。
 

 ☆タロット占いのセッションをいたします☆
   対面セッションで、場所は新宿の喫茶店です。
   30分/2000円です 
   詳しくは こちら をご参照下さい。

    kitaminori@tbt.t-com.ne.jp










 

 
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テーマ : 仏教・佛教 - ジャンル : 学問・文化・芸術

小平を堪能(レストラン「マ・メゾン」と小平市立平櫛田中彫刻美術館)

 夫は普段火曜日が休みなのですが、今週は変則スケジュールで水曜日が休みになりました。
 地元小平でけっこう有名なレストランのランチがよいと評判で、行きたいと思いつつ、そちらは火曜日が定休日なので機会をもてずに来ていたのですが、今日はチャンスだったので行ってみることにしました。
 1970年創業の「マ・メゾン」という、洋食とフレンチを味わえるお店です。
 わたしは以前知り合いと一度来たことがあって、いつか夫と行きたいと思っていました。
 2000円で前菜とスープ、パン、メイン、デザート、飲み物のプリフィクスコースが楽しめます。
 お得すぎる。。。

 前菜↓
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 海老と赤ピーマンのムースの皿と、マグロのカルパッチョ。
 メイン↓
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 仔羊肉のトマト煮とスズキのムースの一皿。
 スープはサツマイモのポタージュでデザートはオレンジが添えられたクラシックショコラでした。もちろん食後のコーヒー・紅茶がつきます。
 これで2000円はすごいですよね。。。仔羊には正直タイムを振っていてほしいと思ったけど、、贅沢は言えない。。。
 平日のコースと休日のコースは少し内容が違うみたいですが、やはりランチは2000円で食べられるそうです。
 内装が木造の山小屋風で、アンティーク調です。女性客が多いお店です。
 小平にいらしたときに、ぜひ(ぐるなびのページ → こちら )。

 ***

 こちらは市内を流れる玉川上水のすぐ近くにありますが、そのまた近くに近代日本の彫刻家、平櫛田中(ひらくしでんちゅう)の美術館「小平市立平櫛田中彫刻美術館」があるのでそちらも訪問しました。

 レストランを出てすぐ、玉川上水を渡る↓
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 平櫛田中という方は、1872年生まれで、107歳まで生きたそうなのですが、晩年の10年ほどを小平市の、この美術館がある地で過ごしたそうです。
 美術館と、旧邸宅が記念館として併設されています。
  
 入り口付近にある、大きなクスノキの切り株(?)↓
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 これを材として大作を彫る予定だったのですが、取りかかれず亡くなったそうな。。。
 そのクスノキが保存されてこのように展示(?)されているのでした。
 
 小平市民は平櫛田中の名前を市報などでよく見ますが、わたしは初めての訪問でした。
 ナメてかかってたら、すごい見応えがありました。
 明治から昭和にかけての近代の、日本美術界のドン(プロデューサーと言われているけど、もっとすごい感じしますよね、、ドンとかフィクサーとか)、岡倉天心に才能を見込まれた人だったそうです。
 岡山県出身で、若い頃に人形師に弟子入りし、その後東京に出てきて芸術としての彫刻に取り組んだ方のようです。
 その、「人形師に弟子入りした」ということがあるためか、、とても生き生きした表情の、リアルな彫刻たちでした。
 リーフレットの写真↓
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 写っているのは岡倉天心像です。なんだか動きそうでした。
 仏像や、中国の古典の逸話を題材にした彫刻も多かったです。
 とにかく、なんと言っていいのか分からないのですが、すごかったなあ。。
 仏像もいくつかあるのですが、それはとても静的で、鬼の像もいくつかあったのですが、それはとても動的で、、対比がおもしろかったし。。
 サイズが大きくなくても、見応えがすごくあったんです。
 こんなすごい人が小平にいたんだあ! という感じです。

 旧邸宅もすてきな日本家屋で(以前行った、三鷹の山本有三記念館に少し似ていた。多摩地区にそういう文化人がいらしたということはやはり嬉しい)、茶室があって、ときどき美術館主催でカジュアルなお茶会もしているそうです。
 こんな美術館があったなんて!
 
 今やっている企画展は「岡倉天心と平櫛田中」というもので、11月6日まで。
 11月9日からは「信仰のかたち」という企画展になり、田中さんが社寺から依頼された仕事についてのものだそうです。なんと、法隆寺や中宮寺などとも関わりがあったとか。薬師寺の薬師如来像の模刻もあって、メインで展示されるようです。
 これも観にいきたいなと思いました。1月29日までだそうです。
 ご興味のある方は、ぜひ! (小平市立平櫛田中美術館のサイト → こちら )


 *おまけ*
 玉川上水の遊歩道で見つけた秋っぽいもの↓
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 帰宅後の夕空↓
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 ☆タロット占いのモニターを募集しています☆
   対面セッションで、場所は新宿の喫茶店です。
   モニター価格で、30分/1000円です(12月末日まで)。
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新しく知った言葉

 買い物の道すがら見つけたお花↓
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 ピンぼけになってしまいましたが、すっごくきれいな色合いでした。名前は分かりません。

 今年の8月のお盆、夫は休めず(子持ちの部下などに休みを譲った。毎年のことです)、10連勤となっています。腰痛も出ていて気の毒です。
 わたしたちは義姉と予定をすりあわせて、たぶん9月に金沢に行って、お墓参りをしてくる予定です。
 今年のお盆は義母にとって「新盆」で、そのために知り合いがわざわざおいしいお菓子を送って下さいました。
 自分たちでは、お盆らしいことはとくになにもしていなかった、、と思ったら、ちょっと特別なことをしていました。
 奈良の春日大社さんで行われる、「中元万燈籠」というものに、参加していたのでした。
 春日大社さんは、わたしが毎月仏教の勉強をさせていただいている、奈良 興福寺と、明治時代までは神仏習合で一体だった神社です(元は藤原氏の氏寺・氏神だそうです)。
 毎月の勉強の中で、春日の神様についてのお話もたくさんしていただいています。
 
 この「中元万燈籠」は、毎年お盆に行われる、燈籠に灯りをつけるお祭りだそうです。
 春日大社さんには参道に沿って石灯籠がたくさん並んでいますが、専用の紙(献燈紙)に名前とお願いごとを書いたものを奉納すると、その石灯籠に貼って灯りを入れてくださるのだそうです。
 同時に申し込みをすると、先祖供養と、亡くなった人の供養もしてくださるそうです(「冥福向上」というらしい)。

 それをしてみませんか? という案内が6月頃にうちに来て(去年の年末にお参りした際に、いろいろな案内をいただくために住所と名前を登録していました)、義母が亡くなったばかりだし、よい機会なので参加させていただこうと決めたのでした。
 8月14日に、わたしの名前の書かれた献燈紙がどこかの石灯籠に貼られていたのだと思います(現地には行けませんでした)。
 そして、北家とわたしの実家の先祖供養と、義父と父の供養のご祈祷もしていただいたのだと思います(義母はまだ亡くなって1年経っていないから、対象ではなかった)。
 自分たちではろくにお盆らしいことをしませんでしたが(でも毎朝、ご先祖の位牌などに向かってお参りしています、般若心経と唯識三十頌も唱えています)、遠い奈良の地でちゃんとやってもらっていたんでした。
 いろいろあって、忘れていました(笑&汗)。いえ、14日には少し思い出していましたが、それからすっかり忘れていました(汗)。
 昨日、参加した「おしるし」というものが春日大社さんから送られてきて、「そうだった」と思い出したのでした(笑)。
 お札とお清めの白檀の香木片と、きれいな織りのストラップでした。
 嬉しいよー!↓
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 本物の白檀の香りってはじめて嗅ぎましたが、甘くて素晴らしい香りです。老山白檀というものだそうです。サンダルウッドの元なのか。。。
 これを焚くには香炉を買わないといけない、、金沢で見てこよう。。。

 今回、はじめてこういうものに参加させていただきましたが、その案内のなかで、すてきな言葉を知りました。
 「神恩感謝」というものです。
 石灯籠に貼る「献燈紙」に書くお願いごとの見本として、書かれていた言葉でした。
 献燈紙の見本はこれ↓
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 「神恩感謝」、春日の神様にご縁をいただいたことに感謝。
 確かに、その気持ちが伝わってくれるなら、それはすてきなお願いごとです。
 だからわたしは迷わず、自分の献燈紙に、神恩感謝と書きました。
 だって「商売繁盛」とか書けるようなアレではないし。。。(笑)
 「家内安全」も大事だけど、、、「病気平癒」も大事だけど、、、そういうことをお願いする、お願いを聞いていただきたい神様そのものへの感謝が伝わること、それって、もっと大きな大事なことな気がします。
 お願いごとをしてしまう限りは。
 「神頼み」をしてしまう限りは。

 この新しい言葉を知ることで、気づかなかったことに気づけたような気がします。
 こういうこと一つ一つがとても嬉しいです。


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慳(けん)を意識すると

 昨日新宿の地下道で見つけたもの↓
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 奈良・興福寺の五重塔と三重塔の特別公開のポスターでした↓
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 かっちょいいポスターだなあ。

 昨日は、新宿(代々木)でやっている奈良興福寺の文化講座に行ってきたのでした。
 
 去年の秋まで、こちらの文化講座に行くと、毎回そのあと、感想のブログを書いていました(アート・文化・学問・宗教のカテゴリに記事があります)。
 2013年の秋から、なにも知らないまま文化講座に通うようになって、はじめはコンサートに行ったときの感想のノリで書きはじめたのですが、あまりにも図々しかったのではないかと思いいたり、仏教の専門家ではないわたしには身に余ることであったと、やめたのです。
 仏教(ここでは興福寺で教えて下さる法相宗の唯識仏教のこと)については、自分の心や活動を見つめるのに役立たせていただけるのであれば、それでいいのかなと思うのもあります。
 ですが、、、昨日講座でしていただいたお話を聞いていて、それもいけないのかな、とも思ってみたり。。。 
 なぜなら、自分にとって、唯識仏教や文化講座で学んでいることはとても心沸き立つものであり、それについてまったく書かないでいるのは、不自然だしマズいのかもしれないという気になりました。
 自己保身したいだけだなとも思うし。

 わたしが興福寺のことを好きなのは、素晴らしい仏像があるからだけじゃなくて、素晴らしい五重塔があるからだけじゃなくて、その教義である「唯識仏教」というものそのものに、ニューエイジや自分のチャネリングで言われていたことと重なる部分があってシンパシーを抱けたからです(そうじゃなかったら、毎月欠かさず講座に行くなんてことはなかったと思います)。
 それと、自分が奈良に魅せられているということもあるのですが。。。(それってつまり、奈良を護る春日の神様の気に魅せられているのかもしれませんが。。。)
 この歳になって(正確には3年前から)、やっと日本の文化について、魅せられるようになったということも、今の自分にとっては大きなことです。
 それまで、日本に生まれながら、日本の文化ってどこか遠いものに思えていたので。。。(70年代の東京都下生まれにはそういう人は多いと思います) 
 「日本」に「足まで転生ができた」という感じでしょうか。いや、頭が転生できたのか?

 ブログでは、なるべく仏教のことについて書くのは控えようと思っていたのですが、今の自分に根付きはじめた心持ちをちゃんと表現しようと思うと、避けて通れない部分なのかなと思いました。

 以前のように、機械的に「文化講座に行ったら即感想!」みたいにはできないかなと思うのですが、興福寺の文化講座に通って学んだことを踏まえた、そういう記事もこれから、折りをみて書いてみようと思いました。 
 といっても、自分が若い頃から考えて学んできたいろいろなことと、まぜこぜな感じになってしまうのだと思いますが。。。これって、「唯識仏教」は、決して「古いもの」ではないということなんですよ。。。。

 とにかく、一応金沢でのことは落ち着いたと思うので、ずっと後回しにしてきたいろいろなことを含め、書いていけたらいいなと思っています。

 がんばろう。。。。(遠い目)

 最後に、慳(けん)というタイトルの言葉について。
 これは、唯識仏教の中で言われる「随煩悩(ずいぼんのう)」という、人の中にあるよくない心のはたらきの一つのことをいいます。
 ものおしみをすることです。
 お金や物品に関するものおしみをすることはもちろん、自分が持つ情報や知恵などを惜しんで外に出さないことも、「慳」にあたります。
 初めて文化講座に行ったとき、この「慳」という言葉の説明を多川俊映貫首様から聞いて、心打たれたのでした。次もお話を聞きに行きたいと思った大きな部分が、この「慳」という言葉の中にありました。
 わたしがブログに占いのこと含めいろいろなことを書くのは、この「慳」を意識している部分もあるからです。でも、うまくいかないことも多々あります。


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国立西洋美術館 日伊国交樹立150周年記念 カラヴァッジョ展

 昨日は変則スケジュールで仕事が休みになった夫と、上野の国立西洋美術館でやっている「カラヴァッジョ展」に行ってきました。
 風邪は少し残っていますが、もうすぐ会期終了(〜6月12日)なので、その前の平日に行きたかったのでした。
 やっと行けた。。風邪のやろう。。。

 展覧会のサイト → こちら

 国立西洋美術館はル・コルビュジェの建築で、このたび世界文化遺産の登録が通りそうだということで、建物そのものを見に来ている人も見受けられたような?
 あの建物を見て、お庭のロダンを見るだけでもけっこう見応えありますよね。

 直線がかっこいい↓
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 常設展示のエリアのホールのここも好き↓
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 教会みたい?

 いつも撮るロダンの「カレーの市民」のかっこいい人↓
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 昨日もかっこよかった。

 日暮れの「考える人」↓
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 いつも国立西洋美術館に行くと、企画展だけじゃなくて見どころがたくさんあって、ブログをまとめるのが難しいです。
 でも別の記事にするのも大変なので、一つの中に入れてしまいます。

 ***

 カラヴァッジョ展ですが、平日ですがそこそこ混んでいました。
 会期終了まで、日曜日以外は夜8時まで開館することになったそうです。
 わたしたちが帰る頃、仕事帰りっぽい人たちも来はじめたかな、という感じでした。

 カラヴァッジョについては、作品を見るのは初めてでしたが、少し思い入れがありました。
 高校生の頃に見た、デレク・ジャーマン監督の「カラヴァッジョ」という映画が、印象に残っていたからです。
 わたしは若い頃から、実在した歴史上の人物が題材になった映画をちょこちょこ見ていましたが、中でも芸術家を描いたヨーロッパの映画は分からないなりに、わりと頑張って見ていました。
 その中でも、一番心に残って、自分に馴染んだ映画が、このデレク・ジャーマンの「カラヴァッジョ」でした。
 何度か見ました。

 ショーン・ビーンやティルダ・スウィントンが出ていて、見所はある映画だと思います。監督のデレク・ジャーマンはゲイでいらっしゃり、エイズで亡くなられています。この方の他の映画はアーティスティックすぎて、わたしにはあまり分かりませんでした(汗)。でも、この映画はすごく好きでした。
 この映画から、カラヴァッジョには同性愛の傾向があったけれど、女性の恋人もいたことであるとか、暴力事件をたびたび起こしていたことなどは知っていました。
 そして、今回の展覧会のためのテレビ番組でも予備知識を仕入れて見にいったのでした。

 会場には、そこまでたくさんのカラヴァッジョ作品があったわけではないのですが(もうちょっとあるかと思っていた、、絵のテーマごとに、類似した他の作家の作品の展示も多かったです)、「これがあの『ミケーレ』の作品か」という感じでありました。
 蛇足ですが、わたしは映画「カラヴァッジョ」で、カラヴァッジョが「ミケランジェロ」という名前(ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ)であったのを見ていたので、彫刻家のミケランジェロのことも、カラヴァッジョなのかと思っていたという恥ずかしい過去があります(汗)。
 
 この前見たテレビ番組で、カラヴァッジョは、イタリアで最も愛される芸術家と言われていたことに驚いていました。
 なんとなく、ラファエロとかダ・ヴィンチのほうが人気があるのかと思っていたのです。
 でも、イタリアの人は、とても親しみを込めてカラヴァッジョのことを愛しているようでした。
 絵を見て、その理由は、、、分かったような?
 なんとなく、静かなんだけれど、暖かみもあるような気がしました。包容力があるっていうか?
 わたしには好きな絵でした。

 買ってきた絵はがきの写真を貼ります。

 まず会場一発目がこれなんだもの(笑)↓
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 『女占い師』1957年
 手相を見ながら男の人の指輪を盗もうとしている絵だそうです。わたしはそういうことしませんよ。。。(笑)

 『果物を持つ少年』1593年↓
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 ぶどうが食べられるんじゃないかってくらいぶどうに見えました。

 衝撃はこれ↓
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 『ナルキッソス』1599年
 この絵を、わたしは印刷で何度も見ていたのですが、カラヴァッジョだったんですね。。。
 それは、高校生のときに読んだ、ナルシズムに関する心理学の新書でした。
 
 なぜこんな本を読んだのかというと、その頃、単館ロードショー映画を見始めていて、「モーリス」というジェームス・アイヴォリーのゲイの映画がきれいでハマってしまって、男性同士の同性愛についてちょっと幻想を持ってしまって、興味を持ってしまったからでした。いわゆる、「腐女子」の走りだったのかも(黒歴史?)。映画「カラヴァッジョ」を見たのもその流れです。でも、自分はディープな「腐女子」とまではいかなかったように思います。。
 この本は、そういうわたしを知った友人が「おもしろいよ」と教えてくれて、図書館で借りたのでした。
 その中にこの絵があって、何度もこの絵を見て、なんとなく恐ろしい気分になっていました。
 ナルキッソスはギリシャ神話で有名なお話で、美少年が他人を愛さず、泉に映る自分の姿に恋をして、泉で溺れ死んで、水仙の花になってしまうというお話です。
 この絵は、その狂気のようなものを、すごくよく表しているように思えて、新書の中の白黒写真を「うわー」と思って何度も見ていました。
 自分にも、他人を愛さず自分を優先する面はあり、その本でわたしはそのことを自覚して、自分のこと(人のこと、人間存在のこと)が怖くなったのでした。読んだあとちょっとウツになってしまったくらい、その本に書かれた「ナルシスト、ナルシズム」というものに反応してしまったのでした。
 それから、自分と他者について、過剰に考えるようになってしまって、、、それが占いに引きつけられたり、チャネリングが起こる素地になったのかもしれません。でも、そもそも、そんな本に縁を持つ素地も、元からあったのだと思います。
 その本で見た絵が、突然壁にかけられてあったので、わたしは驚いたのでした。
 なにか「再会」したような気分でありました。
 この絵のことも忘れていました。カラヴァッジョだったんですね。。(本には誰が描いたか書かれてあったと思いますが)
 やはりすごい絵で、わたしの好きな絵でした。

 そして展覧会の目玉↓
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 『法悦のマグダラのマリア」1606年
 2014年に、カラヴァッジョの真筆と結論づけられた絵で、本邦初公開なのだそうでした。
 何百年も経ってから鑑定されるなんて、そんな話ってある? と思ったし、ちょっと官能的なんじゃないのかなと思っていたのですが、、、本物を目の前にしたら、ぞわわわあっと鳥肌が立ちました。
 すごい絵だと思いました。
 官能性なんてありませんでした。
 これは、人にとって、他人に見られたくない瞬間の一つのシーンだと思います。宗教的法悦に入ってしまうこと。それは、あまりにも個人的な、個人の内側の大きなものを動かす体験なのだと思うからです。芯のところで他人とは共有できないことだと思うんです(「神」とは共有できるのかも?)。
 だから、見てはいけないものを見てしまったような、、こんなの描くなんてちょっとすごい。。カラヴァッジョ。

 絵を観るという「体験」の素晴らしさを、味わったように思います。
 大満足でした。

 これはお約束か?↓
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 夫の携帯で撮ったので画質が悪いですが。。。

 ***

 その後、新館の素描展示室でやっている「描かれた夢解釈――醒めて見るゆめ/眠って見るうつつ」がおもしろそうなので、常設展もちょろちょろ見ながら、そちらも見てきました。
 わたし、けっこうこちらの「素描展示室」を見るのが好きなんです。
 小さいエッチングやペン画がかけられています。
 昨日見たものは、夢の世界をどうにか絵にしようとしたものたちで、とても興味深かったです。
 写真を撮ってもいいとのことだったので、ちょっとだけ。
 
 ゴヤの作品↓
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 『「ロス・カプリーチョス」:理性の眠りは怪物を生む』1799年 
 右側の怪物たちが妙にかわいかった。 
 ゴヤの展覧会も見たことがありますが、わたしはこの方のエッチングも好きです。

 レンブラントの作品も↓
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 『書斎の学者(またはファウスト)』1652年頃
 窓と光と人の配置がやはりレンブラントっぽいですかね。エッチングなのに、ちゃんと(笑)。
 「ファウスト」ってよく聞く言葉だけどどういうものか知らなくて、解説を読んで、なんとなく「そうか」と思いました。勉強になったなあ。
 他にもドラクロワや、イギリス人詩人のウィリアム・ブレイク(夫が少し好きらしい)の作品などもあって、見応えありました。

 時間があるなら、やはり常設展やこういうものも見たほうがよいよなと思いました。
 たっぷり楽しめました。
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 

  

奈良へのお礼参り・2

 やはりブログが長くなってしまいますね。。。(汗) 
 すみません。

 春日大社のあと、興福寺に行きました。
 法要は10時からで、境内に着いたとき、もう9時50分くらいになっていて、少し焦りました。 
 昨日の法要は「仏生会(ぶっしょうえ)」というもので、お釈迦様の誕生日である4月8日に行われるもので(お釈迦様は牡羊座さん! なるほど!)、お釈迦様誕生の出来事を行事にしたものだそうです。お釈迦様はお生れになったとき、天から甘露が降り注がれたというお話があるので、小さな金色のお釈迦様の仏像に、甘茶をかけます。この日はずっと、一般の参拝者が、南円堂の前で仏様に甘茶をかけるお参りができます。
 そしてその「甘茶」を飲む習わしもあるそうで、興福寺でも一人一人への甘茶のお接待がありました(無料だよ!)。
 
 興福寺の広い境内の中、南円堂の前に、法要の準備が整えられていました。

 あの、これに関しては、写真はありません。
 法要の間、わたしも一生懸命祈っていたし、写真に撮るとか、失礼でできませんから。。
 名残と言ってはなんですが、法要の際に「散華」(蓮の花の花びらを模しているもの)に使われた紙をいただいたので、その写真です。
 大事にします↓
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 ですがこの散華、その法要に集まった人全員分はなかったようで、わたしはいただいてしまいましたが、またこのような機会があったら、がっつかないで、他の方におゆずりしようと思います。。。昨日は初めてなので、ついいただいてしまいました。

 法要の最中、般若心経を唱える箇所があって、そこでは僧侶と参加者のみなさんと一緒に、唱えることができました。
 朝は春日大社でみなさんと祝詞を唱え、その後は興福寺でお経を唱え、、、なんと、、、幸せなことだったか!
 (蛇足ですが、わたしは、「左翼思想」に染まった日教組に育てられた世代なので、自分がこういうことができるようになるとまったく思っていませんでした。でも、子供の頃から占い好きで、目に見えないものを求めていたので、これも自然なことなんだよなと思います)

 甘茶というものは初めて飲みましたが、少し苦いお茶に甘味があって、とてもおいしかったです。 
 毎日飲んだら健康によさそうです。

 ***

 法要後は、お礼のお参りです。
 東金堂と五重塔↓
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 興福寺の東金堂には薬師如来様がいらっしゃるので、そこでは特に念入りにお礼をしました。
 本当に、お世話になりました。。(そのうち、武蔵国分寺のお薬師様にも行かなくては!)
 その後は国宝館に行って、千手観音様にお礼(相変わらず阿修羅様は美少年)。
 お土産も少し買う(笑。興福寺のお土産はセンスがいいんですよ! 精進ふりかけ最高!)。

 一通りお参りとお礼が済んでから、じっくり五重塔を眺めました。
 好きすぎてヤバい……↓
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 かっこよすぎる……↓
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 (今、この写真がiPhoneの待ち受けです)

 しばらくじっと見ていて、「動いたりするんじゃねーか」と思っていたのですが、まあ、動かなかったもよう(笑)。
 でも、あの塔はなんであんなに「生きている感じ」がするのだろう。
 夜中とか、ギイギイ言わせてなにかに変身して動いているんじゃないか。。。「もののけ姫」のでいだらぼっちみたいに。。。大きさはあのスケールで。。。
 などという、バカみたいなことを考えてしまいました。
 この五重塔、明治の廃仏毀釈のときは、売りに出されそうにもなったんですって。。。。

 こちらはもう少し優しげな三重塔と桜↓
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 八重桜アップ↓
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 ***
  
 いつまででも見つめていたい五重塔でしたが、お腹も減ってきたので、名残惜しいですがお別れです。
 猿沢池をまわってから、ならまちに出て少し散策↓
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 金沢の東茶屋あたりにも少し似ている街並。

 お昼をどこで食べようか迷ったのですが、年末に行った「ピアノ」というお店に再び行ってみました。
 なんと白人の観光客が日本人よりたくさん入店して混んでいて、店の外でしばらく待ちました。
 本場の人も納得の窯焼きピッツアがあり(お店にいたのは英語圏じゃない人が多かった。フランス語でもなかったような)、前回はリゾットでしたが、今回はピッツアにしてみました。美味でした!
 前菜とカンパリオレンジ↓
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 このように、お酒の誘惑に勝てなくて、気づけばもう2時をまわっていて、大和郡山城にでも行ってみようかと思っていた心がくじけ、そのままJRの駅に向かい、再び開化天皇陵にお参りをして、帰路につきました。
 なんだか好きな景色なのです↓
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 ***

 お参りするコースが決まってきてしまっている気がしますが、充分、胸が一杯、大満足の奈良でした。(でも春日大社も万葉植物園は行ったことがないし、興福寺も湯屋というものがあったというあたりには行ったことがないので、あのエリアだけで精一杯です)
 
 昨日は身をもって「神仏習合」を体験・体感したと思いますが、これはとても正しいことなんじゃないかなと思いました。
 神社では「祓い給い清め給え」と祈って神様に「お願い」しますが、仏教は、その祓うべき穢れが己の心から現れると説き、その心の仕組みを説き、それを律する重要性を説きます。
 人にとっては、その両方の視点が、大事なことなんじゃないかなと思います。
 目に見えない大きな力におまかせする心と、その心の仕組みを理論的に考え、律しようとすること(それは難しいことだけれど、せめて努力はしようとすること)。
 これって、うまくできているなあ、仏教を取り入れたとき、土着の宗教である神道を破壊しなかった奈良の人々は本当に偉いなあ、と思ってしまいました。
 ありがとう! 奈良!


 
 

 
 

 

奈良へのお礼参り・1

 昨日、奈良へお礼参りに行ってきました。 
 これは、このたび、金沢で、義母の葬儀などが、無事に済んだお礼です。
 そこまで、無事にたどり着けるか、とても不安でしたが、本当に、どうにかなったなという感じがしますので。
 そして、その力添えを、奈良の春日の神様からいただいていたと思うので。。。これは、わたし個人の心持ちの問題であるのですが、「金沢」に押しつぶされそうになったとき、助けていただいたと思っているので。。。(そして今は、おかげさまで「金沢」に対する抵抗感もなくなってきていると感じます)
 そうやってわたしが「持ちこたえた」ことの意味を夫は分かっていて、自分の分までお礼参りをしてこいと言ってくれました。
 
 昨日にしたのは、4月8日はお釈迦様の誕生日で、いつも文化講座に通わせていただいている興福寺で、「仏生会」という法要があるとのことなので、どうせなら、そちらのほうも参加(見学)させていただきたかったからです。
 もちろん、興福寺の仏様にもお礼を言わなくてはいけないし。
 興福寺は明治時代までは春日大社と神仏習合で一体だったので、同じ日にお礼参りをしても失礼ではないのではないかと思いました。

 ***
 
 思えばこの1年、それまでよりも頻繁に金沢に行くようになり、移動が増えたことで、「地域のエネルギーの違い」に対しても、理解が深まったというか、本当に、それぞれの場所によってエネルギーが違うということを実感・体感するようになりました。
 「地域のエネルギー」というのは、「土地の神様(の力と影響範囲)」と、伝統的には解釈(言い換え)できるのだと思うのですが、それは、その地域の地形や気候、植生など実際の環境的なものと、目に見えない「雰囲気・空気感」のようなものが元になり、その特色とともに人の生活に影響していくものなのかなと思います。
 これらのことは、わたしにはとてもおもしろく感じられ、これからも勉強して考えていきたいこととしてあります。

 思えば父方も母方も3代以上の東京の郊外エリアの子であるわたしが、このようなことに興味を持つのも、不思議と言えば不思議かもしれません。
 それとも、だからこそ、なのだろうか。。。自分が生まれ育った土地に対しては、なんの疑問もなくどっぷりしているからこそ、なのかもしれませんね。
 そこでの摩擦はなにもないから、消耗しないで済んでいるから。 
 (蛇足ですが夫はかわいそうな人で、故郷の金沢にはどこか、馴染まなかったのですね。。。この前も、親戚から「あんたは突然変異や」と言われていました(笑))
 
 ***

 ということで、奈良への旅のことについて書きます!
 盛りだくさんで、写真もたくさんなので、、、なるべく簡潔にしたいです。。。(できるだろうか)

 行きは高速バスを使いました。
 奈良へは、新宿から奈良交通の「やまと号」が出ています。
 4日にオープンしたばかりの、新宿南口の巨大バスターミナル「バスタ」から出発です!
 じゃーん!↓
160409busta.jpg
 ですが、ですが、、、ちょっと分かりにくいかも! 発着便が多すぎて、出発の15分前くらいにならないとどこの乗車口か表示されないんです!
 それに、、、トイレが少ない!
 女子トイレ、4つしかねーでやんの! 長蛇の列!
 出発口が分からないまま並び、やっと済ませたところでアナウンスが始まって、焦って乗り場まで走りました。
 まあ、バスの中にもトイレはあるのですが、なるべく済ませておきたいじゃないですか。。。

 ちなみになのですが、わたしはやはり、バスでの移動が好きです。
 昨日、帰りは新幹線だったのですが、速すぎて、早すぎて、心が適応できない感じです。
 5時間前まで奈良にいたのに、どうしてもう家にいるのかしら、って、変な感じになります。
 これは、さきほどの「土地のエネルギー」に関係していると思います。
 バスだとゆっくり、エネルギーがグラデーションのようになっていって、目的地の土地とリンクさせてシンクロ、同期させることができるのですが、新幹線だと、心が元の場所にあるまま、先の土地に適応させなくてはいけなくて、なんだか息苦しく感じられるんです(義母が亡くなった日に北陸新幹線を使いましたが、やはりそういう感じでした)。加速中に耳が詰まるのも苦手です。
 でも、飛行機だとたぶん大丈夫なんです。今までの経験からすると。
 たぶん、上空から地上を見下ろすという行為で、なにかあきらめがつくというか、納得するのですが、地上をあの速さで走ると、すごく変な感じなのです。
 若い頃からバスを使って金沢に行っていてよかったなあと思います。身体が慣れているので。
 体力があるうちは、高速バスユーザーでいたいなと思います。経済的だし!
 3列シートだと、そこまで身体もつらくないですよ!
 
 ***

 バスの中では途中起きることもありましたが、そこそこ眠れました。
 5時半頃に目を覚ますと窓の外が明るくなってきていて、きれいな夜明けを見られました。
 天理の前あたりかな?↓
160409sora.jpg
 
 6時過ぎにJR奈良駅に到着。
 6時半からオープンする、駅のビルにあるモスバーガーで朝ご飯を食べ、少しゆっくりし、おトイレでお化粧などさせてもらって、まずは春日大社へレッツラゴーであります。
 しかしゃんがお出迎え。おはよー!↓
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 しかしゃんのお浄めのお水↓
160409sikamizu.jpg

 本殿エリアには8時半前に到着しましたが、巫女さんや神官さんたちがご準備をされています。
 お参りを控えてそれを見学していると、9時前くらいから「朝のお参り」があるので、希望するかたは参加できますよ、とアナウンスがありました。
 それがどういうものかよく分からないけれど、希望するに決まっているじゃないですか。
 ですが、9時から朝のお参りがあって、10時から興福寺で法要がありますから、あまり春日大社でゆっくりはできないんです。
 なので、わたしは先に「奥の院」のほうまで行って、お礼をしてきました。
 金龍神社の階段には桜の花びら↓
  160409sakurakaidan.jpg

 その後ダッシュで本殿エリアに戻り、「朝のお参り」に参加です。
 これが、、すごかったです。
 「参拝所」というところに入って、宮司さんたちと一緒に祝詞を唱える、というものでした。
 入り口で祝詞が書かれた冊子のようなものを貸していただくのですが、さっぱりちんぷんかんぷんで。。。
 とにかく「本格的」なもので、、なにも知らないで入ってしまったけれど、、貴重な体験でした。
 日本の、仏教が入る以前の、古代の姿というのはこういうものだったのか、という感じでしょうか。
 朝のお参りの中心は、災害や災害の被害に遭われた人や地域のために祈るというもので、「大祓」という祝詞を唱えるのものだったようです。
 神官さんと、朝のお参りの参加者の方でも祝詞を覚えている方はいらっしゃるようで(すごいなあ)、声を合わせているのですが、大声じゃないのに、音圧というか、迫力があって。。
 なぜか海が見えたなあ。
 昔は、海に向かってああいう儀式をしていたのかなあ。。。岩と海が見えました。
 大祓の祝詞は3回唱えるのですが、3回目でやっと、どこを読んでいるのか分かって、少しだけわたしも声を出して唱えることができました。
 日本語の古語の文体で、「かしこみかしこみ〜」という感じの言葉です。けっこう長いです。

 その後、宮司さんたちと一緒に、若宮というお宮のほうまでお参りをさせていただけ、春日大社のお話もしていただきました。
 御間道から南門をのぞむ↓
  160409kasuga.jpg

 全部のお話を聞きたかったのですが、10時から行われる興福寺の法要に間に合わなくなるのも怖いので、途中で失礼させていただき、興福寺に向かいました。
 こちらの朝のお参り、また参加させていただきたいなと思っています。
 そのためにも夜行バスは有効です!

 長くなったので記事をいったん切ります。
  
 
 
 
 
 
 
 

奈良興福寺 文化講座 第211回 古建築の復元(中金堂の復元工事によせて)

  先ほど引いたエンジェルカード↓
  151204card.jpg
 「Synthesis」というのは「統合」という意味なのだそうです。 
 頑張らないと。。。。。。。。。。

 ***

 先月の19日に参加した、奈良 興福寺の文化講座(211回、わたしは23回目の参加)の感想(?)を書きます。
 「感想」といっても、いつも内容が自分勝手な方向に行ってしまうのですが。。。

 11月の文化講座の第一講は、㈱瀧川寺社建築の建築技術顧問、國樹 彰さんの「古建築の復元(中金堂の復元工事によせて)」でした。
 國樹さんは、2014年の6月(194回)に「工事の進む中金堂再建」で一度お話を聞いていましたが、今回も楽しく聞くことができました。
 職人さんの、現場や、お使いになる道具などのお話を聞くの、わたしは好きなのです。
 
 現在、奈良の興福寺さんでは、失われていた中金堂を再建されていますが(2018年に落慶だそうです)、その工事をしているのが㈱瀧川寺社建築さんなのです。
 こちらの会社では、2013年にわたしが感動した、奈良の平城京跡の朱雀門や第一大極殿の再建もされています。
 そのときのノウハウが、興福寺さんの中金堂再建でも活かされているそうです。
 再建される建築のことを「復元(復原)」建築ともいうそうです。

 先月の講座では、現在の建築法と古建築の再建などの法的な擦り合わせ(認可など)の問題については、重要な部分と思われるので、前回のお話とかぶる部分がありました(防火や耐震性についてなど)。「復元」のために、いろいろな工夫をされているんだなあと思います。
 
 なるほどなあ、と思ったのは、史跡などの復元工事をするとき、当初の形を復元したくても資料があまりないということがあったり(興福寺さんには資料がたくさん残っているそうです)、創建当時とは違う形で復元されていた「途中期」のものがある場合、その形を無視してもいいのかという問題があったりするそうです。
 とにかく資料を集めるのが大変で、それに基づいて復元案を作るのは並大抵のことではないそうです。

 それと、建物の資材・素材を集めるのも大変だそうで、「そうなのか、ちょっと怖いな」と思ったのは、古来から日本の建築で使われていたいろいろな材料が足りなくなったり、生産されなくなっているというお話です。
 日本の神社仏閣は木造建築ですが、柱になるような木材(ひのきが基本)も外国から調達するようになっているし(興福寺さんもそうなった)、塗装剤の「ニカワ」は、ほとんど作られなくなっていて、昔の技術を継承する人たちが無理して作っていて、値段もすごく高くなっているそうです。
 100年後にはなくなっているものもあるのでは、とのことでした。

 蛇足ですが、今朝の読売新聞に、フランスのワイン産地のボルドー地方では、温暖化の影響でぶどうの収穫時期が早まっていて、醸造過程でのカビの被害も出てくるようになっていて、2050年には今のぶどう栽培地の多くがそれに適さなくなるという予測もあるという記事がありました。 
 ボルドーではワイン醸造の技術が途絶えないように策を練る話も出ているそうですが、、それと、こちらで聞いたニカワの話はどこかでつながるような気がします。

 古いものや伝統を残していくのは難しいことなのだと思いますが、これからの時代はもっと難しくなっていくのでしょうか。
 そういえば、中東での世界遺産の遺跡破壊のニュースもたくさん入ってきますよね。。。 
 奈良には奈良でいてほしい。
 わたしが死んだあとも。
 それは、わたしにとっては、小さな(小さくない?)希望なのですが。。。

 ***

 文化講座の会場近くのデパートのクリスマスディスプレイ↓
  151204keiou.jpg  
 新宿の京王百貨店です。

 おトイレ休憩のあと、瑜伽(瞑想)の時間となりました。
 この日は、まったく集中できませんでした。。
 いや、30秒くらいは、できたかもしれません。。(20分の間に)

 ***
 
 第二講は、多川俊映 興福寺貫首の「『春日權現験記絵』の世界」でした。
 こちらは、14世紀に制作された、奈良の春日大社と春日の神様にまつわる不思議な話をまとめた絵巻です。
 12世紀から明治の廃仏毀釈まで、興福寺と春日社は藤原氏の氏寺・氏神として一体のものであり、この絵巻の成立には興福寺にいらした解脱上人貞慶の関わりもあるそうです。
 毎回、多川貫首が絵巻からいくつかのお話を抜粋してくださり、内容を読んでいき、その絵も見ていくという講座です。

 今回していただいたお話は、なかなか考えさせられるというか、耳が痛い内容のものでありました。

 *興福寺に伝わる「維摩会(ゆいまえ)」という、高僧になるための大きな法会(学僧としての試験も兼ねる?)の途中休憩のとき、勅使(今でいう官僚みたいな人?)の藤原資仲(すけなか)という人が不思議な夢を見て、仏法の勉強に熱心な永超(ようちょう・興福寺に実在の人)が優秀だということで、その次の年にその永超が「維摩会」の講師を務めることとなった。

 *あるときその永超が、春日明神様の「後ろ姿」を見るのだけれど、顔を見たいと願っても「あなたは勉強の面は優秀だけれど、それが本当の宗教心(菩提心)か疑わしいから顔は見せないよ」という意味のことを言われてしまい、気持ちを入れ替える。

 という二つのお話でした。

 「春日權現験記絵」では、いつも春日明神様は顔を描かれていません。
 「神」に顔はない、あるいは顔を表現しきれないからだ、とのことです。
 逆に言えばそれだけ、「相手の顔を見る」ということが、人にとって大事なことで、仏像も「顔」があり、そこに向き合えるからこそ祈りを込めることもできると、多川貫首は語っておられました。

 この永超さんは、勉学が優秀であるが故に、名声を欲している面もあったのではないか、そういう面がわたしたち人間にはあり、この話は現代にも通じるものだ、とのことでした。
 名声のことを、仏教では「名聞利養」といい、約して「名利」というそうです。

 わたしは若い頃学校の勉強は全然しないでいたので、コンスタントにまんべんなく勉強する「技術」がありません。
 でも、自分の好きなことには没頭するタイプではあります。占星術の基礎は10代後半で独学で学びました。
 そういうことで名声を求めるつもりはあまりないつもりなのですが(でも無意識にそちらに流れることはあると思う)、、興味のあることに向かって「勉強」していると、イヤなことを忘れられる面があるように思います。現実逃避というか。
 それで、分からなかったことが分かったり、知らなかったことを知れると嬉しくなります。 
 そういうことで、「気」を逃している部分が、今まですごくあったと思います。
 でもそれが、本当にいいことなのかは、分からないですよね。。
 「勉強」を、人をはじくことに使っている面もあると思います(でも人間関係でぐちゃぐちゃしすぎるのも、いいことではないようにも思うんですが)。 
 わたしにとっては仏教の勉強はすごくおもしろくて、、目からウロコのようなことがたくさんあったと思います。
 でも「仏教」は「勉強」ではなくて「生き方」の話なので、本を読んでいればいいということではないのかなと思います。
 それと、仏教を勉強してみたが故に、自分の情けなさがよく分かるようになって、つらいなあという気持ちになったりもします。

 ***
 
 10月の金沢での2週間弱の滞在では、自分が仏教を勉強する資格はないと感じられることが多かったです。
 ガンの治療のために入院していた義母が退院し、お世話に行ったときです。
 すごく大変でした。
  
 多川貫首は、よく仏教の「捨(しゃ)」ということについてお話をしてくださいます。
 「捨」とは、究極的には、あらゆるこだわりを捨てることのように思います。
 わたしは、自分が相手にしたことにこだわらず、さりげなくしていることもそれに入ると思います(ていうかそれは大きな部分のようです)。
 それはあたかも、キリの尖端についた芥子(けし)の粒が、するりと落ちていくような状態で、それが理想の態度とされるそうです。

 義母のために料理を作り、それが受け入れられず捨てなくてはいけないとき、わたしの心は「捨」ではなかった。
 いろいろなことが重なり自分のエネルギーが枯渇していくのが感じられたとき、わたしの心は「捨」ではなかった。
 それにいちいち気づいてしまう自分がつらかった。情けなかった。
 ガンでひどく痩せている義母を前にして、わたしは「無私の奉仕」ができなかった。
 そんなわたしが仏教の勉強をするなんて、図々しいのかな、と思いながら、毎朝、義父の仏壇に向かって般若心経を唱えていました(東京でも毎朝、義父の写真に向かって般若心経を唱えています。覚えてからそうするようになりましたが、その前から毎朝義父に手を合わせています。これは、去年の春に観ていただいた顔相の天道春樹先生のご指導からそうしています)。

 ですが、金沢での日が進むにつれ、そんなわたしだからこそ、仏教に触れ続けていくしかないのかなと思いはじめました。

 今、「維摩会」の元になっている「維摩経」に関する本も読んでいますが(橋本芳契「維摩経による仏教」)、あと1章を残すのみとなったところで母の怪我があり止まってしまっています。でももう終わりに近くなっているので、少し「維摩経」のことが見えたように思えます。
 その維摩経に、煩悩にまみれた「ひどい世界」を知っている人こそが発心(仏心)を起こすという意味の言葉があります。
 よく、泥の中から蓮が咲くという例えが仏教の中でされると思いますが(日蓮宗のお寺でも聞いたことがあります)、そのことです。
 元からきれいな世界にいたら、きれいであるというのがどういうことなのか分からない。
 汚い自分を知っているからこそ、きれいを目指そうと思える。
 そういうことでしょうか。

 これからも機会が許される限り、文化講座に参加したいと思っています。
 

 
 
 
 
 

テーマ : 仏教・佛教 - ジャンル : 学問・文化・芸術

奈良興福寺 文化講座 第209回 西国三十三観音霊場

 今しがたの空↓
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 今日は暑いです。

 先週の木曜日、9月17日には、代々木ー新宿エリアにある文化学園にて奈良興福寺の文化講座がありましたので、参加してきました。講座は209回目だそうで、わたしは22回目の参加になります。
 22回とか早いなあ。

 この日は講座の後、22時発の夜行バスで金沢に向かい、ガン闘病中の義母のお世話に行く予定だったのですが、21時過ぎになって諸事情からキャンセルになるということがありました。
 なのでこの日わたしは、新宿ー代々木エリアをめちゃくちゃウロウロしました(バス乗り場は代々木駅に近く、払い戻しをしてもらったため)。
 なんだか方向感覚というか、時間の感覚がゆがむような感覚を覚えました。
 現実が、自分の「頭」では追いつかないことになっている、ということかもしれません。
 その感覚は今もあるかもしれません。もしかすると、しばらくもう、そういう感覚の中で日々を進めていかなくてはいけないのかな、という気もしています。
 もしかすると、今の世界のいろいろなニュースなどを見ていると、そういう感覚の中にいるのはわたしだけではないのかもしれない、などとも思ってしまいます。
 大げさでしょうか。

 ***

 先日の文化講座の第一講は、辻明俊興福寺執事による「西国三十三所観音霊場」でした。
 日本では霊場めぐりというのが江戸時代に庶民の間でもブームになったそうです。今でいう「パワースポットめぐり」ですかね。。
 有名なのは四国の八十八カ所と、秩父の三十四観音霊場、そして、こちらの講座のテーマの西国三十三所なのだそうです。
 わたしは、お遍路さんや霊場めぐりということにもうといので勉強になりました。

 「西国三十三所観音霊場」とは、近畿地方にある、巡礼するために選ばれた、観音様のおられる三十三のお寺のことなのだそうです。鎌倉時代に成立しました(四国のお遍路のほうは巡礼の対象が観音様って決まっているわけではないようですね。そういうことも知りませんでした)。

 最近、「観音様ってなんなんだろう」って思いはじめてたので、タイムリーな内容でありがたかったです。

 観音様とは、観音菩薩様のことで、「観世音菩薩」ともいい(般若心経の冒頭の「観自在菩薩」も同じもの)、慈悲救済を特色とした菩薩様なのだそうです。
 だから庶民にも人気があるのか。。。
 よく「観音様」と子供の頃から普通に見聞きしているけれど、そういうことも、よくは知らなかったなあと思います。
 
 インドにおける観音信仰の形成は一世紀頃とされ、六世紀頃からヒンズー教などの影響もあって、いろんなお姿の観音様が出てきたそうです(十一面観音とか千手観音とか)。
 仏教の最初期から観音信仰があったわけではないのですかね。 
 こういう話を聞くと、わたしはキリスト教における「マリア信仰」のことを思い出します。
 キリスト教がヨーロッパに広がっていく際、土着の女神信仰がマリア信仰に置き換わり、キリスト教の教義と習合していったという歴史があるそうなのですが(上山 安敏さんの「魔女とキリスト教」という本で読みました)、教義や戒律を説く宗教だけでは一般の人々の心は動かないもので、人は宗教的に生きる支えとして、やはり慈悲深い、母性的な、人間を超えたなにか大きなものを求めるのではないかと思ってしまいます。
 観音様とかマリア様というのは、究極的な心の中の「お母さん」ですかね。。。
 わたしの中にももちろんそういう大いなるものを求める気持ちはありますし、一応チャネラーですから、自分の「ガイド」の言葉を聞くこともありますが、それとはまた違う感覚で「観音様」というものについて触れてみたいという気持ちが出てきています。

 とはいえ、、西国三十三所観音霊場を周る根性はわたしにはないだろうと思うのですが。。
 西国三十三所は718年に長谷寺の徳道(とくど)上人という方が啓示を受けて(?)設けたという伝説があるそうなのですが、あまりハッキリしたことは分かっていないそうです。
 でも、おととしに奈良に行ったとき、長谷寺の十一面観音立像をお参りしましたが、、自然と手を合わせたくなる素晴らしい観音様だったし、その長谷寺のゆかりがあるというのはなんとなく納得できます。
 興福寺さんは南円堂に不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)像がご本尊でいらっしゃり、そちらが西国三十三所の札所の一つになっていて、参拝者が多くいらっしゃるそうです。

 西国三十三所観音霊場のお寺が1000年以上ずっと変わらぬメンバーでいることは、驚くべきことなのだというお話も印象深かったです。
 ずっとお寺として維持できているということですから。。。
 多川貫首によると、どのお寺もきちんとしたお寺だそうで、ぜひ行ってみてほしいとのことでした。

 ***

 おトイレ休憩の後は瑜伽(瞑想)の時間でした。
 興福寺さんで教えていただく瞑想は、座禅とも言えるものだそうで、わたしが二十歳の頃からやってきた「イメージワーク」などとは少し違うように思えます。
 「イメージワーク」は、意図を持ってなにか目に見えないレベルを「活性化」させるもののように思えますし、興福寺での「瞑想」は、逆に心のいろいろなことを沈静化させるもののように思います。
 どちらも必要なことかもしれないなと思ってみたり。
 そしてどちらも呼吸が大切ということは共通していて、「呼吸」というものそのものもなにか生命の秘密が隠された鍵なんだろうなと思ってみたり。
 よい姿勢になれるように指導していただき、集中しやすかったように思います。姿勢も大事ですね。

 ***

 第二講は多川俊映興福寺貫首の「『春日權現驗記絵』の世界」でした。第6回目。
 明治時代まで興福寺と一体だった春日社や、春日の神様にまつわる不思議な出来事を集めた絵巻物(14世紀初頭成立)を、多川貫首の解説のもとに読むという内容です。場面ごとについた絵もコピーしていただいています。

 このお話がそれぞれおもしろくて、大好きになってきました。
 なんというのか、、人が「不思議」に触れたときの驚きや喜びがその中にあるような気がするのです。
 そして、不思議の向こうにある目に見えない領域(システム?)への畏怖の念というか。。そういうものが、愛おしく描かれているように思えます。
 昔の人も、そういう気分を残したいと思って、この書物を書いたのでしょうか。絵もいちいち味があるんです。。。
 このようなものに触れる機会をいただけて本当にありがたいことです。

 先日の講座で取り上げられたお話では、一組の親子が描かれていました。
 京都にいた信心深いけれど貧しい女が、子供が僧侶になることはよいことだと聞いて8歳になる子を興福寺に入れ、そばで暮らしたけれどその子が11の歳に病に罹ってしまい、死ぬ前に子の出家した(剃髪した)姿を見て安心するが、死後、興福寺の守り神でもある春日大明神様の取り計らいにより閻魔大王様の審判から救われ、生き返ったという話でした。その後その子は仏教をよく修め、興福寺を出て閑居し、法華経を唱えその後亡くなった母親を熱心に供養し、後には高野山に住んで往生した、というものでした。

 読んでいると、母親の息子に対する思いなど描かれた部分が、どうも金沢の義母と夫のことに重なって思えてしまいました。
 昔から、親子の情は変わらずあるんだなという、当たり前のことを思います。
 時代が違うし、病院での治療が大変だったりいろいろな事情はあるけれど、、義母も我が子である夫を愛おしく思うんだろうと思いました。
 息子が母を思う気持ちも同じなのかな。

 金沢行きそびれて帰宅後、夫にこのお話を読んで聞かせました。
 なんとなく嬉しそうな顔をしていました。
 
 



 
 

奈良興福寺 文化講座 第208回 興福寺と光明皇后

 少しブログの更新が空いてしまいました。
 昨日は夕方から、「急遽」という感じでタロットのセッションをしていました。
 今週中は金沢に呼ばれることはないだろうとの判断で、予約をお受けしました。リピーターさんで、多摩地区に用事があるとのことで、地元エリアの喫茶店に来ていただいてのセッションとなりました。
 久しぶりにセッションができてよかったです。

 そしておとといは、新宿エリア(住所は代々木)の文化学園で行われている奈良興福寺の文化講座に行っていました。
 わたしは21回目の参加となります。
 こちらの感想も昨日書きかけていたのですが、、なかなかまとまらないままでした。

 ***

 おとといの講座の第一講は、夛川良俊興福寺執事長による「興福寺と光明皇后」でした。
 光明皇后とは、大化の改新を果たした中臣鎌足(藤原鎌足)の孫娘で701年に生まれ、後の聖武天皇の夫人となった方で、興福寺のみならず東大寺の大仏殿や法隆寺の夢殿など、いろいろなお寺の建設(発願? 専門用語の使い方がまだよく分かりません。。)にも携わったとされるそうです。
 仏教に深く帰依されている方だったそうです。
 わたしが火曜日に夫と参った武蔵国分寺も、聖武天皇の詔で建てられたもので、そこには光明皇后の意志も入っていたと考えられるそうなので、自分の中では話がつながっているな、という感じがしました。
 日本に仏教を根付かせるためにいろいろなことをされた方なのだそうです。

 わたしは暗記が昔から苦手で、人の名前や年号をなかなか覚えられません(笑)。
 なので、歴史は得意ではありませんでした。
 昨日配っていただいたプリントに、人物相関図と年表が書かれてあるのですが、頭には入らないだろうな、という気がします。。。
 それに、わたしはこういうお話を聞くとき、「古代社会」というもののすごさというか、そこにまず圧倒されてしまうのです。
 権力の規模が、、今と桁違いなので。。
 そこで圧倒されて、個人のお話が頭に入ってこなくなってしまう部分があります。 
 藤原氏の娘であり、天皇の妻であった光明皇后様の足跡はあまりに大きく、現代の東京郊外に生きる庶民からは想像しにくいといいますか。。
 でもそこを、「仏教」というものを通して見ようとすれば、少し見えてくるのかもしれません。
 その人を、ただの「権力のある人」と思うのではなく、仏教を広め、守ろうとした人だと考えることで、そのキャラクターを想像できるかもしれません。
 (わたしは左翼教育を受けているので「権力」に対してアレルギー反応があるのだと思います。それがわたしの弱さだということは分かっていて、けっこうこのテーマはわたしにとって大きいものです)

 その方がいてくださったおかげで、日本には仏教に関するいろいろなもの(お寺自体や仏像、法要の形態など?)が今も残り、わたしのようなものがそのことを見聞きすることができるのだろうなあと思います。
 武蔵国分寺のわりと近くにも住んでいるのだし。

 光明皇后様は、施薬院や悲田院という、病気の人を集めて薬草などを処方する(?)、今でいう病院のようなものも興福寺の中に置いたそうです。癩病(ハンセン病)の人なども差別されなかったとか。「福祉」ということを考える方だったのですね。
 遣唐使を送り出したり、新しいお寺を建てたり情熱的に活動されたそうです。
 法華寺にある十一面観音像が、光明皇后様をモデルに作られたものとされているそうです。
 奈良に行ったら見てみたいなと思うものがまた増えました。 

 ***

 この前見つけたユリ↓
  150821yuri.jpg

 ***

 おトイレ休憩の後、瑜伽(瞑想)の時間となりました。
 ご指導のおかげで無理のない姿勢を見つけることができ、少しは集中することができたように思います。

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 第二講は多川俊映興福寺貫首の「『春日権現験記絵』の世界」でした。
 おとといでこの内容は5回目となりますが、だんだん「春日權現験記絵」の世界というか、、「ノリ」が見えてきました。
 はじめは、どういう内容なのか全然分からなかったのですが。
 ひたすらに「春日の神様」に関する不思議な話が出てくるようで、そこに教訓めいた説教めいたことは書かれておらず(書き手の視点は消されている)、淡々と「誰それが(春日の神様にまつわる)こういう経験をした」ということが並んでいるのではないか、という印象です。
 おもしろい。。。
 説教めいた、結論めいたことはいちいち書かれない、いろいろな「体験談」が続くことで、かえって「春日の神様」がいかにすごいのか、怖いのか、ということが立ち現れてくるということでしょうか。
 言い方が悪いのですが、それは「効果的」な書き方なんだろうなと思います。
 すごい書物だなあ。

 おとといは二つほどお話を紹介していただいたのですが、同じテーマのものでありました。
 二つの話の主人公は、わけあって、興福寺を後にした僧侶です。
 二人はそれぞれ、出た先で春日明神様から「あなたはわたしを捨てたけれど、わたしはあなたを見捨てはしない」というメッセージをいただくのです。
 そこに、春日の神様の慈悲が現れているそうで、1度結ばれた縁は消えないということも表現されるそうです。

 このお話には少し思い当たるものがあります。
 わたしは一応チャネラーですが(今は昔ほど頻繁にチャネリングをしなくなったので「一応」です)、20代終わりから30代中盤にかけて、チャネリングや、そこで交流していた「存在(守護霊? 指導霊? ガイド? わたし個人と波長が合うなにか、とても賢く優しく感じられるもの? 意識体? どう言っていいのか分かりません)」のことを考えないようにしていた時期があります。
 チャネラーとして仕事をしてもうまくいかなかったし、なかったことのようにしていたのですね。
 でもそのうち、そうやってなかったことにしていることが自分を苦しめているのかなと思い当たり、再びチャネリングをしようとしてみたところ、やはり同じように言われたのです。
 「わたしたちはずっと見守っていましたよ」的なことを。
 あんたは無視していたけどね、というニュアンスです。
 申し訳なくて嬉しくて泣きました。
 それからは忘れないようにしていると思います。「彼ら」に対して、誠実であろうとするというか(だから名前も顔も出して自分はチャネラーだということを隠さず、ブログを書いています)。

 わたしのチャネリングと、春日の神様にまつわる話を一緒くたにしてはいけないのだと思います。
 ですが、、このあくまでも「見捨てない」とするのは、なんなんだろうと思います。
 慈悲なのか、、切ろうとしても消えないものがあるということの、一つの表現なのか。
 そのような「慈悲」を受け取るということには、責任が伴うような気もします。
 それは確かに、怖いことかもしれません。
 嘘はつけないということだから。 


  
 
 

 

バウッダ[佛教] 中村元・三枝充悳 講談社学術文庫

 昨日の夕暮れ前の空↓
150807sora.jpg
 横に水平に影のようなものができているのですが、たぶん太陽と雲の位置の関係でこうなると思うのですが、これの現象のことをなんと言うのか知りません。

 今日はちょっとヤバい暑さです。気象庁のデータを見ると府中や所沢で37度越えらしいので、小平もそれくらいだろう。
 先ほどベランダに出たら風呂に入ったような感じで、、体温よりも高いのは確実です。
 わたしは冷え性なので扇風機で過ごせることも多いのですが(ひんやりスカーフを首に巻いたりしているとけっこう紛れる)、さすがに今日は無理ですね。。命の危険を感じる。。。

 ***

 夫が金沢に行っている間に書こうと思っていたブログを書きます。

 春から読んでいた中村元さんと三枝充悳(さえぐさみつよし)さんの共著の仏教の解説本、「バウッダ[佛教]」をけっこう前に読み終わっていたので、その感想です。

 こちらの本は、仏教の教義について細かい説明をするものではなくて、主に、2500年前のお釈迦様が説かれたお話が初期仏教となり(それが後に「小乗仏教」などと呼ばれ、東南アジアなどに伝わる仏教になっていく)、その後大乗仏教(中国を経由して日本に伝わった仏教)に分かれていく歴史を解説した本です。
 やっといろいろな疑問が氷解しました!

 以前日蓮宗のお寺の勉強会に少し通ったことがあるのですが、そこで仏教が「小乗仏教」と「大乗仏教」というもので分かれているということを知り(それすら知らなかったのです、30代になっていたけれど)、そこのご住職が小乗仏教のことを「自分だけが悟ればいいと思っているから『小』なのだ」という言い方をされていて(もっと丁寧な言い方ですが、意味としてはそういう感じです)、「どうして同じ仏教でそういうことになるのかなあ」と思っていたんです。
 ちょっと対立しているようなイメージに思えたんですね。
 
 それから時間が経ち、一昨年の秋から奈良興福寺さんの文化講座に通うようになり、中期大乗仏教で大きな影響力を持っていた「唯識」という考え方を学び、「これすごくいいじゃん」と思い(軽い言い方ですみません。。。)、なおさら「小乗」と「大乗」の分類というか、対立のようなものに疑問をもってしまって。

 夫が受講していた放送大学の仏教の教科書、木村清孝さんが書いたものですが、それを読んで大枠は掴んだのですが、それでもなんとなくモヤモヤしていたものが、ここでさらにスッキリしました。

 ***

 初期の仏教が部派仏教などと言われるものになっていって、僧侶が寺にこもって自らの修行と教義の解釈などの学問的探究にいそしむ傍ら(そこで数百年経っている)、各地に建てられたストゥーパ(釈迦の遺骨を納めた塔、それが日本では五重塔のようなものに転換されていくようです)などでは、塔を守る僧侶ではない在家の仏教信者たちがいて、大乗仏教というのは、そこらへんの人たちから自然に起こってきたムーブメントで、お釈迦様が亡くなって500年後くらいに出てきたものだそうです。
 在家信者たちの切実な想いが、「他者に利する」ということを重視する「大乗」という考え方を広めていくようになったようです。

 本の最後にある「解説」は丘山新さんという方で、「隣人愛」を説くキリスト教が2000年前に生まれたのと同じ時期、インドでも仏教は「他者」という存在を発見して、同じ時期にそうやって東西の二つの宗教(キリスト教は元はユダヤ教、仏教の元にはインドの古代哲学のヴェーダなどの影響があるそうです)が「自分以外の人」を発見したのは偶然とは思えない、というような意味のことをおっしゃっています。
 
 そこから自分の「悟り」よりも「他者の救済」を優先する視点につながり、「菩薩」という考え方になっていくそうです。

 ***

 初期の仏典を「阿含経典(有名な「スッタニパータ」もこれに入る)」と言うそうですが、それがお釈迦様のお話をまとめたものにほぼ近いのであろうと言われているもので、それ以降出てくるものは、後の人が解釈を加えて行ったものと言えるそうです。
 それが「大乗仏教」となっていくようなのですが、基本にはもちろんお釈迦様の教えがあります。

 大乗仏教に顕著な「空」という理論を完成させたのは、2世紀にいた龍樹(ナーガールジュナ)という僧なのだそうです。その方がお釈迦様が説く「すべては縁によって起こる」という理論を発展させ、「すべては縁によって変化するのであるから、ものごとに真の自性というものはなく、故にすべては『空』である」と論破したのだそうです。
 そしてその方が般若心経の元にもなる「大智度論」というものを書いて、それを鳩摩羅什さんが漢語に訳して、それが日本にも伝わって、般若心経が尊ばれてきた、ということになるそうです(今でも日本人は「諸行無常」という感覚を持っていますよね、それってすごいと思います)。

 龍樹さんの後、5世紀頃には北部インドで世親菩薩様と無著菩薩様が現れ、中期大乗仏教で大きな影響力を持った「唯識」という考え方を弥勒菩薩様からいただいたとのことで、こちらの本でも唯識についてはたくさんのページが割かれて説明されていました。

 ***

 つまり、わたしが言いたいことは、宗教は時代によって新しい解釈が加わっていき、発展するものなのかな、ということが、さらによく分かった、ということであります。
 初期のものにこそ真実があるというのは言えると思いますが、内容が納得できるのではれば、新しい考え方を受け入れていくのは普通のことなのだろうなと思います。

 正統性の主張というものにこだわれば、初期の原理的なもののほうが優勢なのだと思いますが、、、正統性の主張にばかりこだわると、大事なものを見失うという気もします。
 わたしは「自己の悟りのみを求める世界」から「他者の発見」へ、という、人の心の流れが、素晴らしいのではないかなと思います。 
 それが起こったのは、人類の心の歩みの上での必然だったのではないかな、とか。。。

 蛇足ですが、占星術でも似たようなことが言われています。
 牡羊座から乙女座までの6星座は「自己の世界の完成」がテーマで、後半の天秤座から魚座までの6星座は「他者との関わり」がテーマになる、という考え方です。
 最後の魚座では自己と他者の境界線がなくなると言われます。

 ***
 
 仏教もいろいろな宗派があって混乱する部分がありましたが、この本を読んでかなりスッキリしました。
 出会えてよかったです。
  

 この本、国分寺の本屋さんの文庫本のある棚に入っていて(仏教以外の本もたくさんある)、背表紙が見えていただけなのですが、なぜかバシっとそこに目が行ってしまい(=わたしには光って見えた)、立ち読みしたらすごくよさそうだから買ったのでした(後にAmazonで中古で、ですが。。)。
 わたしにはときどき、こういうことがあります。
 本屋さんで「光る」本を見つけること(この前ご紹介したまついなつきさんの「しあわせ占星術」も、地元の本屋さんで突然見つけました)。
 それは、そのときのわたしに必要な内容が書かれた本です。必ずそうです。
 普通のやり方で情報を探しても、わたしの経験と頭ではこの本には行き着けなかったと思います。

 様々に分かれた仏教の成り立ちそのものに興味がある方は、この本をお読みになるとかなり理解が進むと思います。
 それぞれの宗派などの立場を超えた部分で、客観的に考えることができるのだと思います。
 すごくおすすめだと思います。
 
 後半に読誦のためのお経の解説も少しあり、わたしも「般若心経」を暗誦できるようになりました!(まだ途中でつまってばかりですが、最後までだいたい頭に入りました!ヾ(o゚Д゚)ノィャッホィ♪)

 「バウッダ」は、サンスクリット語で「ブッダを信奉する人たち(Bauddha)」という意味だそうです。
 
 

 
 



 

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奈良興福寺 文化講座 第207回 入門 般若心経 -その4-

 おととし奈良に行ったときの写真を再掲↓
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 興福寺の五重塔。
 なんだかわたしはこれが一番好きなんだ、という気がする。。どこのお寺のお堂や塔よりも(といっても行ったことない場所ばかりなのだけれど)。
 だっておととしの奈良旅行以来、この五重塔がふっと脳裏に浮かぶことが多いんです。
 
 昨日は南新宿エリアにある文化学園で行われている、奈良興福寺の文化講座(207回)に行ってきました。
 昨日は台風の影響で天気が悪く、直行直帰で新宿の写真なども撮らなかったので、五重塔の写真を引っ張りだしました。
 来月の1日・2日にも奈良に行くので、五重塔との「再会」も楽しみです♪
 (夏の間、興福寺さんは「中金堂再建現場の見学」と「ご講話と北円堂の見学」という企画をされますが、中金堂の見学は応募が間に合わなかったので、わたしは2日のご講話と北円堂の見学のみに参加させていただきます。中金堂の工事現場の公開はこれからもあるのでしょうか。。また「リベンジ」をしなくてはいけなくなりました)

 ***

 昨日の第一講は、森谷英俊興福寺副貫首の「入門 般若心経 -その4-」でした。
 
 般若心経は金沢の舅が諳んじていたお経ですが、わたしも最近暗誦できるようになりたいなと思っており、今は「得阿耨多羅三藐三菩提(とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)」のところまでどうにか覚えました(もう少しでゴールだ。。でもこの先にたくさん出てくる「咒(しゅ)」という言葉が難しいような気がする。。)。

 森谷副貫首はこの「入門 般若心経」で、必ず般若心経の中で説かれる「空」についての説明をしてくださいます。
 やはりこの「空」というものをどう考えるのかは難しいのだと思います。
 わたしはつい「空洞」のイメージを持ってしまいます。「空洞」にならないと「入ってくるもの」がないから、空と色は表裏一体、とか、そういうイメージです。でもこれもきっと間違っているというか、自分の願望や価値観を反映させているものにすぎないと思いますが、人間である限り一人一人が「独自解釈」するしかできないと思います。そして、森谷副貫首は「それでいい」とおっしゃってくださっていました。
 でも、やはりこうやってずっと続くお寺の講座で勉強できるほうが、独自解釈で「暴走してしまう」のを避けることができるのだろうと思います。「共通認識」のような部分から離れずにいられる。
 そこを無視してしまっては、「勉強」にはならないのかな、と思いました。
 わたしは「好き勝手」をしたいのではなくて「勉強」をしたいので、ほんとにありがたいなあと思っています。

 「ああ、そういうことかあ」と思ったのは、仏教においての「無」と「有」の考え方を説明してくださった部分です。
 ちょっとわたしの頭ではうまく説明ができないのですが、仏教では、「事実」と「概念(観念、言葉)」を明確に分けて考えるのだ、ということでした。
 「事実」を見れば、すべては変化し「諸行無常」なので、有るとか無いとか考えること自体が意味がなくなるのですが、観念や概念、言葉の上では様々なものは「ある」と判断している、それがわたしたちだ、ということのようです。
 で、「ある」ということで執着を起こしてしまって困ったことになりがちだから、「『事実』としては絶対的なものなど無いんだよ」ということを思い出してみなよ、と言っているのが仏教だ、ということなのかな。。
 書いているうちに分からなくなってきました(汗)。

 今、「バウッダ」という仏教の解説本のラストあたりまで来ていて、大乗仏教についてずいぶん背景など分かったし、それが終わったら「維摩経」の本に本格的に入っていく予定なので、もう少し「空」の考え方について、慣れてくるかなという気がします。
 勉強することたくさんあって楽しいです。

 ***

 おトイレ休憩の後は瑜伽(ゆが・瞑想)の時間となりました。
 昨日も一瞬しか集中できず。。。途中、瑜伽の時間なのだということをすっかり忘れて、食べ物のことを考えていました。。しかも先日食べた台湾料理の担子麺がアリアリと浮かんで。。。(;´д`)トホホ…

 ***

 第二講は多川俊映興福寺貫首の「春日権現験記絵の世界 四」でした。
 明治まで神仏習合で奈良の興福寺と春日社は一体となっていて(どちらも藤原氏の氏寺、氏神です)、日本は1000年そうやって「神仏習合」で来たので、「神」についても考えないと「ほんとうには分からない」というのが、多川貫首のお考えです。
 この「分からない」というのは、、日本人の心であるとか、日本人が本当に大事にしてきたものであるとか、そいういうもののことをおっしゃっているのかな、と思っています。
 そしてそれは、たぶん、細かく違いはあっても、世界のどの古代文化でもたいていの場合、共通している部分がある「なにか」についてのことなのではないかなと思うのですが。。
 人というのは、人知を超えたものへの憧れを、捨てることなどできないのではないか。

 仏教の勉強をしようと思って興福寺さんの文化講座に通わせていただいていたのですが、神道についてというか、奈良の神様(土地の神様)のことまでお話をしていただけるなんて、、ありがたすぎて呆然としてしまいます。
 
 東京から遠い奈良ですが、春日の神様への憧れが募ってしまいます(お話によると不信者には大変に怖い神様だそうです。。)。
 来月奈良に行くのは、春日大社へのお参りもしたいからです。
 春日の神様は春日明神と呼ばれますが、仏教に対応する呼び方は「慈悲万行菩薩」様というそうです。慈悲万行菩薩様はお地蔵様で、法相宗を護っているのだそうです。
 ご挨拶しなくてはいけませんね!
 でもなんか怒られたらどうしよう!

 こちらの「春日権現験記絵」の内容は、奈良の春日社に伝わる「不思議な話」を集めたもので、読んでいると楽しくなります。絵もついていて、絵本を読んでいるような気分にもなってしまいます(のんきだろうか)。
 ですが、この「春日権現験記絵」の中でも、春日明神様の姿など、「神の姿」はあまりハッキリとは描かれていないのだそうです。昨日読んだ部分でも後ろ姿で、顔は描かれていないそうです。
 仏教では仏の姿を仏像にしたり、絵にしたりしますが(でも初期の仏教ではやはり釈迦の顔は法輪などに置き換えられていましたよね。。)、神道ではあまりそういうことはされていません。神社のご神体は鏡だったりしますよね。。

 人間の中には、神(人知を超えたもの)の姿を見ることを畏れる部分と、一方でそれが表された仏像などを崇拝する部分とがあると、貫首はおっしゃっいます。
 それはけっこう、人間にとっての大きな問題なのかもしれません。
 
 この話を聞いていて、ジョーン・オズボーンの「One Of Us」という曲を思い出しました。
 
  神に名前があったらなんていうだろう?
  彼の輝きを前にしてあなたは呼ぶことができる?
  もしどうしても聞きたい質問があったら。
 
  神に顔があるとしたらどんなだろう?
  あなたはそれを見てみたい?
  もしキリストや聖者、預言者を信じなくてはいけないとしても?

 と歌う歌で、「神が、わたしたちのようにそのへんのバスに乗っているとしたら?」とも歌います。
 95年にヒットした曲で、すごく好きな歌でした(昨日まで忘れてたけど)。

 
 この曲を久しぶりに聴いて、神はわたしたちとまったく同じではないだろう、と思いました。この曲は神を矮小化させているとも言えるかもしれません。
 でも、テーマはそれではなくて、人々の奥深くには神(や仏)と同質のなにかが埋まっている(種がある)のではないか、ということを歌っているのかなと思います(そしてそういう人間という存在を慈しんでいる)。
 それをそうだと思わないと、たぶん生きるのはただの苦しみとなり、地上が「リアル・ヒャッハーの世界(マッドマックスみたいな世界)」になってしまうのではないかなと思います。
 それを避けようとするのが、わたしたちの挑戦なのではないか。

 
 ☆タロット占いのモニターを募集しています☆
   対面セッションで、場所は新宿の喫茶店です。
   通常価格30分3000円のところ期間限定で30分1000円(8月末日まで)。
   詳しくは こちら をご参照下さい。
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奈良興福寺 文化講座 第206回 唯識思想の人間観(下)ー種子と悟りー

 濃い色のガクアジサイ↓ 
  150619ajisai.jpg
 花火が広がっているみたいでかわいい。
 近所で撮ったものです。

 昨日は南新宿エリアにある文化学園にて行われた奈良・興福寺の文化講座(206回)に参加してきました。わたしは19回目の参加です。
 第一講は先月・先々月に引き続き、東洋大学・東海大学非常勤講師でいらっしゃる橘川智昭先生の講義で、「唯識思想の人間観(下)ー種子と悟りー」でした。

 4月から三回に渡って橘川先生の研究される唯識思想のお話を聞いてきましたが、やはり先月の講座の感想で書いたように、唯識思想における「人の中には、仏の道への種がない人がいるのではないか」という視点が議論を呼ぶのだな、と思わざるを得ません。
 でも、その視点があるからこそ、日本に伝わった「大乗仏教」は自分や人生について考える上で、様々に検討する視点が与えられていて、奥が深くなっているのではないかと思います。
 いろいろな可能性を考えて、自分はどう生きればいいのかをとことん突き詰めさせられるというか。。。

 昨日も難しい専門用語がたくさん出てきてお話についていくのは大変だったのですが、橘川先生のおっしゃった中で印象に残ったのは、「はじめに植えられている『種』の部分は『運命』と言えなくもないけれど、それよりも個人の努力で向上していこうとする『つとめ』の部分が大事だということではないか」というお話の部分でした(もっと難しい言葉を使うのですが、わたしはそれを駆使できないのでこんな表現ですみません)。
 人に植えられている「種」の部分は、なかなか外からは分かりづらいので、とにかくがんばるしかない、と考えて実践していくかどうかが大事といいますか。。。(汗・ひどい言い方だ。。。) 
 でもほんとに、結局そこでしかないのではないか。
 その「がんばり方」について、仏教はほんとによく説明してくれてるんだよな、と、思います。
 「がんばり方が分からない」って、けっこうあると思うんです。特に複雑で情報過多な現代に生きるわたしたちには(少なくともわたしはそうだったような気がする)。
 この「がんばる」というのは、世間的な「成功」を追い求めることではもちろんなくて。。。
 「凛とする」という言い方がありますが、「凛として生きる」ためにどうすればいいかっていうことかな。。。

 ***

 あと橘川先生のお話でおもしろいなと思ったのは、中国で仏教が根付く際、儒教と折り合ったということがあるようなのですが(結局他国から思想がもたらされるときには、その地でもとから重視されているものとある程度習合しないと根付かないのだと思います。日本では中国テイストとなった仏教が、さらに神道と習合されていくので、インドでの原始仏教とは別物くらいになるのは当然ですよね。。宗教も文化的活動で、人が伝えるものなのだから、それでいいのではないかなと思います)、中国の儒教では人生の「不思議」の部分は、「否定しないし尊重もするけれど、あえては語らない」という態度なのだ、という部分です。
 へ〜〜〜、という感じですね!
 確かに中国の人ってあんまりオカルトとか興味なさそう! そんで実利主義のイメージ(爆買いツアーとか(笑))。
 気功とかそういうのはあるのか。。。でもこれもけっこう「実利」の部分が大きいイメージだ。健康増進とか。占いもあるはあるか(四柱推命、難しいですよね。。)。でもそれも、実利のために利用するイメージ(事業の成功を占うとか?)。
 橘川先生は「日本はどちらかというと不思議について分析したがる」とおっしゃって、まあ、わたしはチャネリングをしてしまう人間なので、そういう日本に生まれたのでよかったなあと思ってしまいました。
 中国では、チャネリング能力などが出てきてしまった人は、どういう扱いを受けるんだろう。。。とくに現代は、共産国(一党支配国)なのに資本主義も取り入れててカオスっぽいイメージだけど。。
 そういえば、イギリスもヨーロッパの端の島国で、けっこうオカルトの研究がされているようですが、どこかで日本と似ている部分があるのかな。。キリスト教が興った場所から離れているのも、日本と条件が似ていますね。
 そういう地理的なことを考えるのもおもしろいなと思っています。
 いろいろな視点をいただけてよかったです。

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 箸休めでバラの写真↓
  150619rose.jpg
 前のiPhoneで撮っておいたものです。

 おトイレ休憩の後、瑜伽(瞑想)の時間でしたが、先月よりは楽な姿勢を見つけられたような気がしますが、それでもやはり集中は難しいのでありました。。。20分くらいの中で集中できてたのってたぶん2分あるかないかくらい。。。(滝汗)

 ***

 第二講はいつもですと多川俊映興福寺貫首のご講話なのですが、昨日は用事があるとのことで、森谷俊英興福寺副貫首のご講話と変更になりました。
 森谷副貫首は、有名な「般若心経」について教えてくださっています。
 ご講話の始めと終わりに般若心経を声に出して読むのが「お決まり」となっています。わたしもだいぶ慣れてきました。
 
 般若心経はお舅さんが諳んじるお経で、夫は子供の頃から聞いて育ってきたようです。
 お舅さんは金沢の料亭をやっていましたが、代々滋賀県の太郎坊宮(今は神社となっていますが明治時代までは天台宗のお寺と習合されていたそうです)を信仰していて、昔は月に一度夫を連れてお参りに行っていたそうです。それでお宮の前で般若心経を唱えていたとか。
 夫はそういう義父に対して複雑な思いを抱いてきたのですが、ここにきてわたしまで仏教の勉強をして、般若心経を唱えているというのは、これも「不思議」なことなのかしらと思います(義父はきっと天国で喜んでいるに違いない!)。
 夫も最近は仏教の本を読んでいます。

 昨日の森谷副貫首のお話では、維摩経(ゆいまぎょう)のお話もあったのですが、わたしは先日から維摩経の本(過去の興福寺の文化講座をまとめたもので、橋本芳契さんの「維摩経による仏教」です)も読みはじめたのでタイムリーでありがたかったです。
 まだ読み始めでその内容について全然分からないのですが、維摩経は般若心経などで説かれていることを、物語にして語っているお経なのだそうです。
 維摩経は興福寺と縁の深いお経で、興福寺を建てた藤原鎌足(中臣鎌足)が病気になったときに読んでもらって、病気が治ったという言い伝えがあるものだそうで、奈良南都仏教界では「維摩会」という大きな学僧になるための試験と儀式のようなものもあるとのことです。

 ***

 昨日は維摩経のお話から般若心経のお話になりましたが、最近わたしは般若心経を唱えられるようになろうと思っていて、今は「無無明」という箇所まで覚えました。
 般若心経は300文字に満たない短いお経ですが、わたしは暗記が苦手だし(偏差値低い。。)、内容が難しいので、今読んでいるもうひとつの本、中村元さんと三枝充よしさんの「バウッダ」に載っている般若心経の読み下しを頼りに少しずつ覚えていっています。
 
 ずっと自分にはお経の暗記など無理だと思っていたのですが、この春に心境の変化が訪れました。

 義母のガンが見つかり、4月の前半に夫と二人で金沢に向かったときです。
 深夜バスで金沢入りしましたが、折り悪く、生理の初日があたってしまったのです。
 (この先、非常に生々しい話が続きます、申し訳ありません)。
 わたしは初日の生理痛がひどいのですが、バスの中でやはり痛みがひどく、加えてお腹も下しはじめてしまいました。
 寝静まったバスの中、、深夜3時過ぎ、、、わたしは我慢しきれずバスについているトイレにこもりました。
 激しい痛みがあり、腹の中にあるものが全部出ない限りは座席には戻れないと観念しました。
 バス、揺れるんですよ。。それになるべくならバスのトイレは使いたくなかったのに。。。事情が事情だけに許して。。。
 そうやってバスのトイレにいるとき、「もうヤだ」とか、「ああ最低だ」とか「なんでこんなときにこんなことに」のような、「恨み言」を、心の中で言いたくない、と強く思ったのですね。
 30代までの自分だったら、たぶんそういう言葉で頭の中を埋め尽くしていたと思うのですが、それをするとなにもいいことがないということが、だいたい分かってきたのでね。。。
 そのとき、もうしょうがない、という感じで、「南無妙法蓮華経」という言葉を、何度も心の中で繰り返したんです。
 言葉を、言葉で制したということです。
 そういうときには、お経がいいのだろうと思ったのです。
 
 以前、日蓮宗のお寺の勉強会で、ご住職から「とにかく南無妙法蓮華経と唱えればいいんだ」とお話を聞いていて、「そんなもんかねえ」と思っていたのですが(生意気ですみません)、背に腹は代えられなかった。。。
 「南無妙法蓮華経」という言葉にはご利益があるとか、そういう言い方もされていると思いますが、自分はご利益とかは二の次でした。
 とにかく、頭の中を、自分の心をさらに乱すような言葉で埋め尽くす前に、ほかの言葉で遮ってしまえ、ということでした。「南無妙法蓮華教」という言葉にどういう意味があるかは分からないし、この際二の次でしたが、きっとよい意味だということは思いましたし。
 そうしてみますと、頭に「悪い言葉」が広がるのを、ほんとに防げたのです。
 そして、出すもの出し切った後(汚い話ですみません)、座席に戻って、しばらくすると眠ることができました。
 ご利益、、、あったじゃないか!(笑)

 この体験で、ああ、言葉ってほんとに大事だし、怖いなと改めて思いました。
 結局わたしたちは言葉で考え、言葉で暗示にかかるので、やはり気をつけないといけないのですね。

 それから、じゃあ、どうせなら、般若心経を覚えよう、という気持ちになりました。
 覚えようとすることで、「悪いこと」を考えるのを制することもできそうな気がします。
 イヤなことを考えそうになったら、お経を心の中で唱える。
 もちろん、イヤでも考える必要のあることなら考えますよ、勇猛果敢に(今までだってそうしてきたもん!)。でも、考えてもしょうがないことをつべこべ考えて気分が悪くなるのはバカバカしいんです。そこでお経ですよ!
 
 義父もなにかの必要性があって、覚えたのだろうか。

 来月も般若心経のお話を聞けるので、楽しみです。

  
 ☆タロット占いのモニターを募集しています☆
   対面セッションで、場所は新宿の喫茶店です。
   通常価格30分3000円のところ期間限定で30分1000円(8月末日まで)。
   詳しくは こちら をご参照下さい。
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奈良興福寺 文化講座 第205回 唯識思想の人間観(中)ー仏性をめぐってー

 渋谷区代々木の文化学園の入り口にあったゼラニウム↓
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 昨日はこちらの文化学園にて行われている、奈良・興福寺の文化講座第205回に参加してきました。
 なんとなく久しぶりの新宿です。
 義母のガンが発覚してから、賑やかな雰囲気をなるべく避けるようにしていて(なんとなくそうしないと事に当たれなかった)、まだそれが抜けきっていないので通り道の新宿の雑踏が刺激的に感じられました。。
 少しずつ感覚を戻していってもいいかなという気がするので、講座の後はカフェで食事しました。
 講座の復習をしながらリハビリ?↓
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 昨日の第一講は先月に引き続き、東洋大学・東海大学非常勤講師であられる橘川智昭先生の「唯識思想の人間観(中)ー仏性をめぐってー」でした。
 
 先月の講義で、仏教の唯識思想では「人の中には仏様のような悟りにはいたれない人もいる」という前提があるという部分で、他の宗派と様々な論争を引き起こしてきたということを習いましたが、昨日の講義ではそのことをもっと深めるお話をしていただきました。
 ちょっと専門的で難しいところもあったのですが、話を覚えているうちにカフェで復習をしたので、少し頭に入ったかもしれません(笑)。

 ***

 以前、わたしは日蓮宗のお寺の勉強会にも参加していたことがあったのですが、そこでご住職から「法華経」の話を聞いていました。
 その内容についてはあまり詳しいお話はなかったのですが、その後、知り合いが法華経を読んで、「これどう思う?」と「譬喩品の火宅の話」の箇所を読ませてくれたことがあります。
 そこについての詳しいお話が昨日はありました。
 それは、とても簡単に言ってしまうと、家が火事になっていて、その中で子供たちが遊びに夢中で外になかなか逃げないとき、火事だと教えるのではなく、子供たちが喜ぶおもちゃを与えるから外に出ろと言うことで火事から逃げさせ、外では言っていたおもちゃよりももっとよいものを与える、という説話です。
 そこの部分をどう解釈するかが、人の悟りの道筋を考える上で、けっこう大きなポイントになるそうです。
 (わたしと知り合いは、そのとき「そもそも『火事だ』と言わないことがおかしくね?」と話したのですが(笑)、これは「真実をそのまま語らなくても、人を救うことができるのではないか(そういうことも必要なのではないか)」、という「実践」の部分のお話なのだなと思っています。相手が真実を受け入れる準備ができていない人だった場合、ということなんですよね。。でも、いずれは火事だと言わなくてはいけないのではないかとも思ってしまうけれど。。はじめから「火事だ火事だ」とばかり言っていたら、人は「イスラム国」の人たちみたいになってしまうのかな。。つまり厭世的になってしまうのかな。。「カタストロフ厨」という人たちが世の中にはいるそうです。わたしにもそういう面はあると思います)

 ***

 今までも何回か書いてきていますが、わたし自身は日蓮宗のお寺で聞いた「とにかく南無妙法蓮華経と唱えればいいんだ」ということに少し違和感を感じたし、93年にモンゴルに行っているのですが、そのときチベット仏教寺院を訪ねて「マニ車」をまわしたのですが、「これでお経を読んだことにしてしまうのでは、まじめな修行をする人たちに対して失礼な気がする・・」という気もしました(でも「どうせなら」ということで、超ぐるぐるまわした(笑))。
 でも、それを素直に「そうなんだ、ありがたい」と考えることでもっと素直になれて、仏の道を歩める人もいるのだろうと思います。

 話が少し脱線しますが、若い頃、本当に大好きだった友人が、いろいろな悩みから新興宗教(創価学会から分かれた、今非常に勢力のあるもの)に入って、わたしに入信を勧めてきたということがあります。
 そのときもうわたしはチャネリングが起こっていて、自分なりの感じ方を大事にしたかったので、彼女とはそこで決別することになりました。
 そのときに、彼女が「『南無妙法蓮華経』と唱えるだけでいいと言われて、すごく楽になった」と泣きながら言ったことを、心の痛みとともに思い出します。
 彼女の苦しみは、そこまでのものだったのか、と思い至ったからです。
 わたしには、彼女の選択を否定することはできません。でも、自分も同じ選択をすることも、心の底から、イヤだったのです。
 でも今でも、彼女を思い出せば、元気でやっているといいなと思います。それは変わらず思うし、思い出すと愛おしい気持ちにもなります。
 その彼女がその宗教で救われたのなら、その宗教のことも全否定はできないと思っています。
 (所属できるコミュニティを見つけるという安堵感を、わたしは否定できない。。まったくできません)

 ***

 問題は、仏の道(真の悟りへの道)についてどう考えていけば、投げやりにならずにいられるのか、ということなのかな、と、橘川先生のお話を聞きながら思いました。
 「世の中には真の悟りにいたれない人もいる」と考えることでがんばるのか(わたしはたぶんこのタイプ)、
 「すべての人に真の悟りの種は植えられている」と考えることでがんばるのか。
 難しい。。。どちらの視点も大事なような気がする。。。
 もしかすると、チャネリングがはじまったばかりの21歳の夏に「ほんとかよ」と思いつつモンゴルで「マニ車」を回したから、20年以上経った今、わたしは仏教の勉強をできる場所にいられているのかもしれないし。。。
 すっごい難しい問題だ!
 どうりで、、1000年近くも論争が続いていて、結論が出ないままになっているわけだ。。。
 でも、、、結論出なくてもいいような気がする、、、と、素人のわたしは思ってしまうんだけど、それではいけないんだろうか。
 ずっとずっと考え続ければいいんじゃないのかな。。。ダメなのかな。。。
 「我が身を振り返る」ということを考えるとき、唯識思想の「五姓各別」ということは有効なのかなという風に思います。

 ***

 おトイレ休憩の後、瑜伽(瞑想)の時間です。
 昨日は、、、椅子に座っていて、、、「身体をまっすぐにする」ということを意識しすぎて、、、全然集中できませんでした。。。orz
 普段姿勢が悪いので、たぶん「正しくまっすぐ」にはなかなかなれないんではないかなと思います。。。
 こういうのにも心が反映されるんですかね、、、怖い怖い。。。

 ***

 第二講は多川俊映貫首の「春日權現験記絵」の世界(三)でした。
 こちらは、14世紀初頭に成立した、奈良の春日大社(と興福寺。神仏習合思想の元、明治までは一体のものでした)と、春日の神様にまつわる不思議なできごとを集めた絵巻物のお話です。
 不思議なできごとというのは、チャネリング(憑依)みたいなことだったり、春日の神様にまつわる幻影のようなものが顕われるお話だったりするようです。

 貫首は「現代のわたしたちからすると『なんだこんなもの』と思えるかもしれませんが、そうやって突き放さず、当時の人々がこういうことを大事に思って、このようなものに遺したということを考えて読んでいただきたき、春日の神様などにも思いを馳せていただきたい」とおっしゃいました。
 これこそ、素直な気持ちで受け止めていきたいことかなと思います。
 ちょっと「子供心」を復活させて、聞いていきたいかなと思ってみたり。
 そうすることで、わたしにはまだよく分からない「春日の神様」(や日本の神様が日本人にどういう影響を与えてきたのか)について、具体的にイメージできてくるかもしれません。
 それはつまり、その土地を守る「神様」のことなのかなと思いますが。。。

 少し話が脱線しますが、少し前に読んだ本におもしろいことが書いてありました(アメリカ人のフランク・キンズローという人の本です)。
 マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーというインドの有名な瞑想家が言っていたことだそうですが、地球では80キロメートルごとに土地のエネルギーが変わるのだそうです(半径40kmと考えていいのだろうか)。
 そのエネルギーのことを「デーヴァ」と呼ぶそうです。女神ですね。
 土地を支配する女神が80kmごとにいて、「ある領域のデーヴァはその隣の領域のデーヴァに力を譲り、それが地球全体にわたって続いている」と言われているそうです。

 このあたり、きちんと調べていないし、そういう本を読んできてもいないのですが、ちょっと気になることです。 
 たぶんそのデーヴァの下に細かに神様がいて、その地域、村単位でまた、なんとなく支配する空気というものがあるのかなと思ったりします。
 わたしは東京の土地以外に住んだことがないし、父方・母方ともに3代以上東京(都下エリア)なので、どうしても東京のデーヴァが馴染んでいると思います。
 そして、、、金沢に行くと、やはり全然空気が違うので、四苦八苦します。
 金沢のデーヴァは硬くて厳しい感じです。でもビシっとしててかっこいい。東京は柔らかい。都下なんてふにゃふにゃ(笑・もっとしっかりしろ!)。
 奈良は、、おととし行って、なんだかとっても魅了されたのですね。
 東京とも金沢とも違ったと思う。まだそれがどんなものがよく分からないけれど、おおらかだなという気がしました。なんかとにかく大きいんだよね。。。大きくて透明で柔らかい。。。
 もっとよく知りたい!
 それに春日の神様(「慈悲万行菩薩」というお名前で、お地蔵様で表されるそうです)は、きっとお優しいエネルギーなのかなと思うので、ああ、、、お参りに行きたいよう!
 ああ、、興福寺のなにかに触れるとき、わたしはときどき子供のような気分になるけれど、、お地蔵様のエネルギーがあるからなのかもしれなかったりするのかな。。。
 けっこう怖いお顔の仏像もたくさんあるところなのに。。。(笑)

 昨日の多川貫首のお話では、昔の興福寺のお話も出ておもしろかったです。
 すごいことです、生であのようなお話を聞けるというのは。。。(それをここに書いてもいいのかは分からないので割愛します。文化講座は毎月新宿の文化学園にて開催、参加費500円です!)

 「大和のデーヴァ」と「慈悲深いお地蔵様」への憧れを胸に、お話を聞いていきたいと思います。

 
 
 
 
 
 
 

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奈良興福寺 文化講座 第204回 唯識思想の人間観(上)ー相と性ー

 昨日の新宿西南方面空↓
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 昨日は夕方から、新宿西南エリアにある文化学園で行われている、奈良・興福寺の文化講座に参加してきました。わたしは17回目の参加。
 先月暮れに金沢のお姑さんのガンが見つかり、入院手術でわたしたちも金沢入りなどばたばたしていたので、なんだか久しぶりに感じられました。新宿の雑踏を歩くこと自体久しぶりに感じられましたが、今、新宿にはほんとに中国人観光客が多いですね。去年春はここまでじゃなかったような。
 なにかこう、、時代の変化のようなものも感じています。

 昨日の第一講は東洋大学・東海大学非常勤講師である橘川智昭先生による「唯識思想の人間観(上)ー相と性ー」でした。
 今月から始まったこちらの講義、全部で3回シリーズだそうです。
 
 わたしが参加させていただいているこちらの文化講座を主催される奈良・興福寺さんは、「法相宗(ほっそうしゅう)」という宗派のお寺で、法相宗は「唯識思想」というものを伝える仏教の宗派で、中国の慈恩大使様が宗祖です(中国からインドへ経典を求める旅をした玄奘三蔵法師様は法相宗の「鼻祖」とされています)。
 わたしはなぜかこちらの興福寺さんにご縁をいただいたようで、今、けっこう熱く「唯識仏教」を勉強させていただいています。
 自分としては「唯識思想」はすっごくおもしろいのですが、「唯識」については今まで興福寺の多川俊映貫首のご著書でしか読んでおりません。
 ちなみに、今は多川貫首の「貞慶『愚迷発心集』を読む」を読んでいます。その他に多川貫首の「心に響く99の言葉」も読んでるし、以前にされた文化講座での講義内容をまとめたという橋本芳契さんの「維摩経による佛教」という本も取り寄せています(これって「貪り」なんだろうか。。。でも、、、今いろいろあるので、これらの本を買っておきたかったんですね。。。)。
 加えて中村元先生と三枝充よしさんの「バウッダ」という本も読んでいます。「スッタニパータ」も読んでいて、いくつか金沢に持っていくつもりです。
 
 このように奈良・興福寺に伝わる「唯識思想」というものに共感を覚え、熱烈に今その勉強をしているのですが、それは単に「ご縁をいただいたから、ありがたいから」というような理由でそうしているのではなくて、その内容に「はあ、これはすごいな」と思う部分があるからです。

 昨日から始まった橘川先生の講義は、わたしが「唯識思想ってすごいな」と思ったものの代表の一つについて、これから議論されていくようです。

 それがなにかというと、唯識思想では、簡単に言ってしまうと「人は皆がすべて、ブッダのような悟りを得られるわけではないのではないか」ということを言っているという部分です。
 
 わたしのような者がろくに勉強もしていないのにそこだけ切り取って書いてしまうことはとても危険かとは思いますが、あまり詳しい専門用語をここで書いてしまうとかえって収拾がつかなくなる気がするので(汗・ずるいですかね)、唯識思想にはそういう視点がある、ということにとどめさせていただきますが、これってすごくわたしにとっては新鮮な視点だったのです。

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 わたしは長らく「ニューエイジ思想」に触れてきて、21歳からは自分でもチャネリングなどをしてきました。
 その中で、うーん、、、やはり、この問題、「誰でも『悟れる』のか=自在の人生を歩めるのか」というのは、あまり表立っては語られていないけれど、大きいものではないかなとずっと思ってきています。
 表向きは、「誰でも」とされているようなイメージがあります。ニューエイジの中でも。
 でも、、、「誰でも」とされることで、、「自分を律する」という必要性がないがしろにされてはいないか、と、ずっとそう思ってきています。
 世の中には、誰でも簡単に、想い通りの人生を歩めるよ、というような「自己啓発本」などがけっこうあるように思います。それと「仏教の悟り」はまた別のものだけれど、どこかで共通するものもあるように思えます。
 そういうニューエイジ的なものを見てきて、、、正直ちょっと共感できなくなっていて、いろいろと彷徨した先に、この「唯識思想」に出会った、というのが、自分の実感であります。
 
 それと、自分のチャネリングにおいてですが、自分にいろいろな発想をくれる(と感じられる)存在たち(と感じられるもの)は、わたしに対して、「なんでもいいから自由にしてればそのうちよくなるよ」とは、あまり言ってきていないように感じます。
 やはり、自分の意識をよりよい方向に向けて、ある程度の意思を持つことが大事だ、というニュアンスで、ずっと「指導」されてきているように感じています。なんでもいいから自由にしなさい、と言われたことはないように思います。
 意思だけではどうにもならない部分は、手放す、ということも言われているかもしれないけれど。。。そして、「自由」ももちろん大事なんだけれど。。

 「ニューエイジ思想」ってひとまとめにできるものではなくて、哲学的な視点からまじめに考えているものもあるけれど、自由主義のヒッピー文化を継承しているものもあって(それに商業主義も加わっている)、それらがいっしょくたになっているイメージもあり、まじめに接すれば接するほど、いろいろと混乱する部分もあると思います。
 まあ、そんなわたしがたどり着いたのが「誰でもOKとは言えないのではないか」ということを提示した「唯識仏教」だったのですが。。。
 そうですよね、そう考えないと、いろいろと無理がありますよね、と思ったのですね。そこに触れて。

 ですが、仏教では大前提として「人にはみな、仏(悟りを開いた人)となるための種もある」とも言われているのです。だから唯識の考え方は矛盾しているようにも思えます。
 そのあたりで、唯識仏教というのは長らく論争の的になっているようで、日本仏教である天台宗とのバトルの歴史(ひどい書き方・笑)もあるそうです。
 今月から講義してくださる橘川先生は、どちらかというと、唯識に対して批判的な立場におられる先生の元におられたそうで、だからこそ唯識を研究されていたのだそうです。
 
 そういう重大テーマについての講義ということで、楽しみだなと思います。

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 休憩時間の後、瑜伽(ゆが。瞑想)の時間となりましたが、昨日は全然集中できませんでした。。とほほ

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 昨日の第二講は森谷英俊・興福寺副貫首による「現代社会と阿闍世王」でした(昨日は多川俊映貫首は用事があるということで代講となりました)。
 最近は「イスラム国」などのテロも激しく、ネットでそれが喧伝されて乱世と言えるような雰囲気もあります。
 元にあるのはイスラム教世界とキリスト教世界の対立であり、仏教も世界宗教の一つとされていて、ではその宗教を支える「宗教心」というのはなんだろう、というテーマのお話であったと思います。

 まず森谷副貫首は、中東を中心とした古代文明の中で宗教が立ち上がる元がどこにあったのかのお話をされました。
 紀元前1300年代のエジプトのアメンホテプ王が、世界ではじめて「一神教」を発明した、というところに源流があるのではないか、とのことでした。
 アメンホテプはツタンカーメン王の父親で、それまで多神教だったエジプトの信仰の中にいた太陽神を唯一神(最上神?)としたそうです。
 これって、ものすごい「発明」だったんだろうなって思いますよね。。。古代社会というのは、だいたい多神教らしいので、そこで一つに決めるというのは、発想の転換としてすごいことだと思います。 
 前に読んだジュリアン・ジェインズの「神々の沈黙」によると、紀元前1200年前後に地中海沿岸地域に天変地異など多発し文明がかなり混乱し、人々の流動が激しかった(=乱世)時代があるのですが、そのあたりの過酷な状況・環境が、人々からおおらかさを奪って、、、一神教の発想を受け入れる素地になったのかもしれません(ちなみに、その時代の前まで多神教の中にいた人々は、それぞれが神の声を聞くことができた=ある意味チャネリングしていた、とも考えられるそうです)。
 
 その後ユダヤ人がエジプトから追い出され、イスラエル王国ができユダヤ教が成立し、キリスト教が興り、その後ムハンマドの出現によりイスラム教も興ります。その中でキリスト教世界とイスラム教世界の対立が起こりはじめます。
 当時はイスラム教の地中海地域のほうが経済が豊かだったため、キリスト教徒のヨーロッパ人はその富を奪取することも求るようになり、十字軍派遣などにつながっていく、ということなのだそうです。

 学校時代世界史で少し勉強したことでしたが忘れていたし、今、「イスラム国」の問題などもあるので、それが今でも続いているということを考えさせられます。

 そこで森谷副貫首は、仏陀がまだ世にいた頃にインドで王様だった阿闍世(あじゃせ)王のお話をされました。
 権力に取り憑かれ、父王を殺してしまった阿闍世王が、仏陀に人間の罪の本質について訊ねたときのことがお経になっているそうで、そこを抜き出してくださいました(「阿闍世王経』二巻のうちの、「佛説阿闍世王経」)。

 それをまとめると、人が罪を犯す理由は、権力や自我などの実体のないものに執着するからで、それらには実体がないということを知らないことがそもそもの問題で、そのことを説く仏教をよりどころとすることで、人は罪を犯すことから距離を取れる、ということのように思いました。

 講義の始まりと終わりに、「すべてのものには確固たる実体などはないのだ」と説く般若心経を唱えました。
 最近、夫も般若心経の本を読んでいます。舅が般若心経をそらんじられる人で、そのことへの疑問がずっとあったそうなのですが、わたしがいつも仏教の話をしているから、ちゃんと読んでみようという気になったそうです。
 このお経を「理解する」のは難しいのでしょうけれど、、、とにかく、心をどう保つのかということが大事なのだと思うので、触れてみて、少しでもヒントにしていけたらと思っています。
 
 


 
 

 
 
 

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