奈良興福寺 文化講座 第190回 「国宝 仏頭展」をふりかえる

 今日も頭の中に響く「ナーダ音」の中で目覚め(一日の中で一番うるさい。ほんと寝ている間になにか「メンテナンス」しているのだろうと思う)、意識がはっきりしてくる間に「ああ、なにか素晴らしいことがあったような気がするなあ。。」という感覚があり、思い起こしたのは、オリンピック女子フィギュアのこと(わたしは個人的にコストナー選手に心からの拍手を送っている、もちろん真央ちゃんも、他の選手にもですが)。
 そして、ゆうべ興福寺文化講座で最後に聞いたこと。

 これは去年奈良は吉野で買った亀の焼き物↓
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 首と手足が別々に動くんです、すごくよくできている。夫が見つけました☆

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 ということで、昨日は奈良興福寺の文化講座に参加してきました。

 昨日で4回目、だいぶ場の雰囲気に慣れてきました。
 そして、多川俊映法相宗管長の唯識の本を少しずつですが読み進めているので、内容についても全体の流れというか、講義の構造がどういうものになっているのかが掴めてきました。
 つまり、質疑応答の時間が欲しいと思えるようになってきたのです! 
 ですが、1時間の間にたくさんお話してくださるので、とてもそんな時間はないのですね(これも太っ腹ですごいこと、情報の「出し惜しみ」ということがまったくない。ある程度生きてくると、これができる人がとても少ないということが分かってくるし、ブログをやっている手前、書くことに関して、自分もそうあれるように心がけねばならぬなと思っています。なんでも出せばいいってものでもないけれど)。

 もちろん、わたしのような素人が「質問したい」なんていうのは失礼にあたることだし(わたしが質問したいのは、仏教の中だけのことではなくて、現代社会や20世紀に隆盛を誇った精神分析、あるいは昨今の先進国にある「スピリチュアル文化」に絡めたことになってしまうと思うから)、質疑応答はしなくてもよいのですが、単にここで言いたいのは、お話を聞いていて、自分の今までの考えや経験に絡めて具体的に話を聞けるようになってきたということで、一歩進んでいるかなと思うのです。それがもう最高に嬉しい。
 こういうことから得られる喜びというのは、他のなにからも得られないかけがえのないものだ。

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 第一講は興福寺 辻明俊録事による「『国宝 仏頭展』をふりかえる」でした。

 去年秋、上野の東京芸術大学大学美術館にて開かれていた展覧会と、お寺が展覧会を開くためにしていることについてのお話でした。
 とってもおもしろかった!
 去年の「国宝 仏頭展」は入場者数が伸び悩み、18万人だったそうです(すばらしかったのにもったいない! ちなみに09年にあった「国宝 阿修羅展」は東京・福岡合わせて165万人でその年の世界一位になったそうです)。 

 奈良などの古いお寺は「お寺」であると同時に国宝級の文化財を保存している組織でもあって、その二面性というか、結果としてそういう役割を担わなくてはいけなくなっていったのだと思いますが、そのあたりのご苦労も垣間見えました。
 展示物として移動・運搬のリスクが本当に大変そうです。
 でも最近は運送技術、梱包技術が飛躍的に伸びているとのことで、有名な阿修羅像には専用の運搬ケースができたそうです。
 ほかにも、アルミが貼られたケースが除湿機能が優れているから展覧会後も捨てないで取っておいて、仏具を入れたりしているそうです(笑)。
 がんばれ興福寺! 勧進するから待っててね! たいした額じゃないけれど!!

 仏像を展覧会に「出張」させるときには、像から魂を抜く儀式もするそうです(発遣法要という)。
 だから、わたしたちが美術館で見るのは美術品としての「仏像」で、そのエッセンスはきっとお寺に残るのでしょう。
 そういうお話はもう少し詳しく聞きたかったかもしれない。

 あと、移動させることを契機にして、仏像の調査もするそうです。年代測定や、CTスキャンまでしたそうな!
 そうやって、内部の構造を調べ、どうやって造ったのかが分かれば、後学に役立ち、新しい表現への足がかりになるかもしれません。
 そういう意味でも展覧会をすることの余波というのはたくさんあるそうです。

 こんなお話を聞くとまた奈良に行って、興福寺国宝館を見たくなります。この前は駆け足だったし。。。
 まだ見ていないお寺もたくさんあります。
 やっぱ奈良行きたいなあ!
 そのうち一人でも行っちゃおうかなあ!(夫がたぶんしばらく休みは取れない状態になりそうです。台湾はおろか、国内旅行でもあまり遠出はできなさそう)

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 とはいいつつ、そんなにしょっちゅう奈良に行くというのも大変なので(これからやっていきたいこともあるし)、せめてこの興福寺の文化講座でその空気に触れていたいなと思っています。

 この文化講座では瞑想の時間があるのも嬉しいです。
 昨日は森谷英俊執事長から瞑想の指導がありました。
 毎日の瞑想、日によって集中度にばらつきはありますが、続けています。
 「瞑想」というのは、単にリラックスして脱力することではないのだな、と、改めて思うようになりました。
 もっと「自分を律する」という意志が必要な、もっとタイトななにかだ。
 それは、「上がるためのなにか」ではなく、「落ちないためのなにか」であり、「落ちない」ことへの結果として、少しだけ「上がる」かもしれない、そういう部分に賭ける、とてもストイックなもの。
 そして一気に上がって一気に落ちる、をくり返すことよりも、もっと「確実」なものなのだろう。地味だけど。
 そして、とても有効なものだ。

 ***
 
 第二講は多川俊映貫首の「唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)を読む」でした。
 
 毎回講義内容のプリントをいただくのですが、はじめはどういうことか全然分からなかったのが、分かるようになってきました。
 「唯識三十頌」という元はサンスクリット語の原典教典があって、そこに書かれていることをさらに玄奘三蔵が解説した「成唯識論」というものがあり、そこで細かく人の心の働きなどが説明されている、と、こういうことになるようです。
 元の「唯識三十頌」自体は全658字なので、その中にこんなに細かく説明されているの? と疑問だったのですが、ようやくそういうことが見えてきました(三蔵法師ってすごいありがたい人だ!)。
 
 昨日の講義までで、人の行為の裏にある人の心の働き=「心所(しんじょ)」の個別の説明が終わったそうです。
 わたしは途中からの参加で、人の心のよくない(不善)の働きを知ることから入りましたが、昨日多川貫首は「大事なことだから何度でも説明します」と、人の心のよい働きの部分(善心所)の「信」についても解説してくださいました(細かい説明は長くなるので割愛しますが、「信」とは「実を深く忍す。徳を深く楽(ぎょう)す。能を深く欲す」というもので、仏教を盲信するのではなくて、仏教の説く善法を「知的に解釈し、ブッダや仏法や僧侶への敬愛を忘れず、実践していく意志を持つ」ことを言うそうです)。

 やはり、人の心にはよい働きをする部分もあるということも聞かないと、人間の愚かさ、残酷さ、複雑さ、面倒さに圧倒され、生きることにくじけそうになります。
 多川貫首はそのこともお分かりでいらっしゃって、大事なことはくり返し説明してくださるのだと思います。
 「そんなことはもう分かってる」とは言えないのだろうと思います。なにに対しても。
 分かったと思ってもすぐに忘れるからです。
 そのこと(人は忘れる生き物だということ)を、本当によく分かっていらっしゃるのだろうと。。わたしのようなものが偉そうな言い方になってしまうのですが。。。。分かってないのに。。。
 とにかく、分かってなくても、分かっていても、とにかく自戒して、くり返し大切なことを心に刻み込む、それしかできないのかなと思う。

 ***

 昨日のお話の最後、とても強いお言葉をいただきました。

 多川貫首は、こうおっしゃいました(細かい表現は違うかもしれませんが、大意としてはこうです)。

 (前提として、現実世界では「比較」が存在し、そこから「苦」が生まれる、というお話の流れがありました)
 比較の中で生きることからの離脱=宗教である。
 それを「現実逃避」と言うこともできるが、そして、現実世界の中にある「比較」を否定することも、消すこともできないが、心の中に「比較のない世界」を持つことは可能だし、それは個人にとってとても大きな力になるはずだ。「宗教」の存在意義はそこにある。

 わたしはこの言葉を聞いて、とても胸が熱くなりました。
 貫首のお考えがまっすぐ伝わってきたように思え、なぜか泣きたくなりました。

 これからも勉強を続けていこうと思います。
 (でも来月は予定があり参加できないのでものすごく残念! プリントだけでももらいに行こうかなあ。。)
 素晴らしい講座なので、興味を持たれた方は受講してみてはいかがでしょう、と、本気で思います。参加費500円です! (案内のサイト→ こちら )
 
 
 


 
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