わたしのことと「エンパス」のこと、目に見えないレベルのこと。

 うちのiMacの足下のミニ祭壇↓
140519saidan.jpg
 各種クリスタルと浅草観音、イタリア製の十字架のペンダントヘッドとユニコーンのペンジュラム(オモチャじゃなくて、18金ダイア入りのちゃんとしたジュエリーです! でもペンジュラムとして使われるようになっちゃった)。
 かなり節操がない。
 これがいけないのだろうと思う。

 わたしは小学生の頃から占いが好きで、小学校4年の時点で12星座の風火水土の区分は頭に入っていました(中学に入って「マイバースデー」を読むようになるまで水瓶座が風のグループということがなかなか覚えられなかったけれど)。
 なにか目に見えないレベルにある「宇宙の法則」のようなものに、ずっと興味があったのだと思います。
 それはつまり、目に見える世界を信用できないということかもしれません。
 そういう困った心根を持っていますが、それはたぶん、わたしが「エンパス(共感能力者)」という性質を持っていて、他人の感情的な反応に対して過敏で、他人の問題をまるで自分のことのように感じてしまう性質があるためだと思われます。境界線が弱い。
 それはもう、一種の障害のようなもので、克服するのはなかなか大変だし、調子が悪くなるとコントロールが難しくなります。

 ***

 それは生まれつきの性質と言われているものですが、たぶん、父がそういう人でした。母もないわけではないような気がする。
 なのでわたしの場合は遺伝かなと思います。

 日本人の5人に一人は「エンパス」と言われているようですが(「腹芸」という言葉があるくらいの文化、西洋では20人に一人だとか)、このあたりの研究をされている提唱者のアメリカ人女性の著作も読んだのですが、結局その問題を「幸せになるためのツールにしましょ☆」という方向に持っていくため(最終的にはその視点も必要なのですが)、問題が世間に広く認識されるための工夫をしないというか、、、ある程度学術的に論ずる価値のある事柄だとわたしは思うのですが、そういう人からまったく相手にされない(むしろバカにされる)だろう方向で一部の人にだけ認識されている範囲にとどまっていて、とてももったいないです。
 「エンパスである」ということがなかなかに苦しいことであるため、まずはその苦しみをどうにかして取り除こう、それにはこれがいいですよ、ということに主眼が置かれてしまっている。でもそういう範囲で語られていると、そうじゃない人には「なんのこっちゃ、お花畑だな」で終わってしまうのですよね。
 苦しみを「苦しみ」として、そのまま見つめるというのは胆力(勇気)の有無の問題で、それをそうしないとそうじゃない人には伝わらないんですよ。わたしはその「伝わらない」ということが悔しい(だってわたしは苦しんできているし、公共性のある問題だとも思うから)。

 ***

 今の若者が「空気を読む」ということに過剰に反応して、携帯やLINEやTwitterで問題を起こすことには、少なからずこの「エンパス(エンパシー能力)」が関わっているだろうと思うのです。エンパスは他者と自分を気持ちの上で切り離すことができないのですから。
 日本人が「おもてなし精神」が強くて、なにかにつけ付和雷同してしまうのだって「エンパシー能力」が高いから。世界から日本人は変な人の集団だと思われているのだって、この「エンパシー能力」が高すぎて小さな範囲にとどまってしまうから。つまり敏感すぎて、自分が安心できる範囲の中にいないと不安定になるのです。
 そしてとにかく他人の目が気になってしまう、というのもエンパスだからですよ。相手が自分をどう思うのかが想像つくから、大きく出られないんです。エンパスじゃない人はいいよね、そういうの気にしないでいいんだから。

 わたしは若い人の中にエンパスが増えているのではないかと思っています。
 それが悪い方向で出ているような。。昔の日本なら、そういうことをやり過ごすノウハウが共同体の中にあったのかもしれない。

 「日本人」を考えるときに、この問題はとても大きいのになあ。
 江戸時代の鎖国だって、そういうことで説明できるかもしれない。
 西洋人がいち早く近代化・工業化したのだって、エンパスが少ないからですよ(暴論)。工業化って、非人間的で共感なんて切り捨てて達成するものですよね。
 東洋の端っこにいながらその変化をすぐに輸入してとりあえず近代化の形を作れた日本人ですが、エンパスだから真似がうまいんです。他人の思考パターンをなぞることができるんです。でもエンパス故に冷徹に徹することができないから、中途半端になってしまった。だから特殊と見られてしまう。

 こうやって、かなり説明つくんだけどなあ。
 そういう性質の人がいるってことを、それを性格や思い込みの問題で片づけないで、ちょっとまじめに取り合ってもらいたいと思ってしまう。
 どっかの学者さんがやってくれないかしら。学術論文・学会発表レベルでやってほしいよな。そうしないと認知されないもの、正式に。こんなブログじゃね。

 ***
 
 なんでこのことを書いているのかというと、この前参加した興福寺の文化講座の感想を書こうと思ったからなのですが、なんだかそこに行くまでにやたらに長い文章を書いてしまった。。。

 ***

 わたしは子供の頃、幼稚園に行くのが嫌で嫌でたまりませんでした。 
 だって子供の群れなんてジャングルじゃないですかー。秩序もなにもなくて(もちろん母から離れる不安も大きかったです)。
 朝から昼までずっと泣いていました。ジャングルの中で。今でも覚えています。
 まあ、年長さんになったときには慣れて、もう泣かなくなっていたけれど。。。ピアノ習ったのも大きかったかもしれないです。そこで新しい世界ができた。逃げ場と言ってもいいかもしれない。
 
 そういう自分は他と違っていて、ちょっとおかしいな、という認識はその頃からあったので、だから小学生で星座占いを知ったとき、自分のその部分が説明されうるかもしれないと期待したんです。
 自分のことだけじゃなくて、お友達のことも、説明されうるのじゃないかと思ったのです。
 自分が受けている印象と、実際に「そうである」とされているもののギャップの説明。

 西洋占星術に関しては、その後本格的に勉強を始めますが、まあ、説明できるというか、よく出ています、わたしという人間が。
 そして、超常現象とまではいかないまでも、目に見えるレベルだけで考えていても説明できないようなことも経験したし、とうとう21歳でチャネラーになってしまったのですから、もうこれはなかなか大変であったのです。自分のことを詐欺師・精神疾患だと疑うということも同時にしなくてはいけなかったわけですから(そう人から疑われるであろうことが分かっているから自戒のためにしていた。もうそこでは悩んで悩んでノイローゼにもなりました。本末転倒やで)。
 だから、必死で、「目に見えない世界(領域)を含んだ世界観・宇宙観」について、うまく説明しうるなにかがないかと探してしまうのです。
 そして、探すと、けっこういろいろあるなとも思う。探すというよりは、知りたいと思っていると出会うということですけれど。
 知って、勉強する価値があるものは、けっこうたくさんある。きっとすべてに手が回るということはないだろう、くらいに。

 今では、この事実が自分にとっての大きな救いとなっています。
 
 

 
 
 
関連記事
スポンサーサイト

テーマ : モノの見方、考え方。 - ジャンル : 心と身体

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)