奈良興福寺 文化講座 第193回 井上円了の人と思想

 少し珍しい紫のバラ↓
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 そういえば「ガラスの仮面」の最新刊て出たのかしら? 調べたら出てないっぽい。。どうすんだろう。。

 連載が40年近くも続く少女漫画「ガラスの仮面」の作者の美内すずえさんは、80年代後半くらいから神懸かりっぽくなり、チャネラーになってしまったのですが、そのあたりからこの作品も迷走し始めると思います。
 ストーリーが何パターンも浮かんでしまって収拾つかなくなっているんですよね。。
 意識が拡大されることで、「現実」への対応に集中できなくなるというか、垣間見える広範な意識の世界と、たった一つの結果に結実する(かのように見える)現実世界とのギャップが意識されるというのはあると思います。それが苦しいんですよ、ほんとに(笑)。
 そういう混乱を落ち着かせるのに、わたしは20年とかかかっているわけです。もちろんまだまだ怪しいですが。

 わたしにとっては、意識の世界と現実の世界のリンクの相関関係を考えるというのは大きなテーマで(20年以上ずっとそれをしている、最近やっとそれに関するようなことをブログで文章にするようになったというだけ。こういう分野のものすごく簡単な言い方が「引き寄せの法則」などだと思います。あまり好きな言い方じゃないけど)、それにはいろいろなことを勉強しなくてはいけません。いろいろなことを勉強しないと考えが進まないからだし、とっかかりが欲しいからです。
 そういう部分で考えが進んだり、同じようなことを考えて実践している人が他にもいるということを知ることが、わたしにはなによりも嬉しい。

 ***

 というわけで、勉強の一環で、奈良興福寺の文化講座に通っています。
 毎回、「こういう話を知りたかったんだよ!」と思えるお話が聞けて、今のわたしにとって大きな心のよりどころの一つになっています。

 16日にあった講座では、前半の講義が東洋大学学長の竹村牧男さんの「井上円了の人と思想」でした。

 井上円了さんは、江戸時代末期に生まれ、10歳のときに明治維新を迎えます。
 お寺に生まれたそうで仏教が染み付いていた方だそうです。
 社会が西洋化していく中、井上さんは東京大学文学部哲学科に入学し、あのフェノロサの下で哲学を学びます。ヘーゲルなどに影響を受けたそうで、キリスト教や西洋の哲学も吸収されます。
 ですが最終的に仏教こそ、人間の真の理を説明しうるものだ、と思い直し、西洋化を急ぐ中で廃仏毀釈に揺れる日本社会、日本仏教界を立て直そうと奔走されたそうです。
 自信を失っていた明治期の日本の仏教界を鼓舞し、徹底的に破壊されることを食い止めたそうです。
 立役者ですね。

 人間の生活の中心には「すべてのものさし」となりうる哲学が必要だと考え、それを教育するための東洋大学を設立するにいたります。
 そして「迷信打破」のために、「超常現象」を「妖怪」として、妖怪研究に取り組みます。こちらの分野で大変に有名なのだそうですが、わたしは知りませんでした。
 個人的にはこれが気になります(笑)。
 いろいろな「妖怪(超常)現象」のうち、多くは詐欺行為であったり偶然によるもので、ほかは自然現象であったり人の心理が起こす錯覚だったりするのですが、わずかに「これは本当だ」と思えるものもある、とされたそうです。
 そして結論として、普通に、野に花が咲くそのことそのものが不思議な「妖怪現象なのだ」とされたようです。
 これも、そうだよな、と思います。
 生命がどこからできたのか。タンパク質の生成だけでここまで来るのか。
 そこに、なにか見えない力が働いているのではないのか(量子レベルで存在するなにかかもしれない)。
 そこに「宇宙の意志」はないのか。
 その宇宙の意志とはなにか。その「意志」はわたしたち一人一人とどこかでつながっているのではないのか。
 量子物理学が最終的に行き着くのは、そういう分野ではないのか。そうなると、「自然科学」と「不思議(妖怪、超常現象)」が実は同等で同質なものとなりうるのではないのか。
 わたしがずっとぼんやりと考えてきたことです。
 それを明治の時代に日本で大真面目にやった方がいたんだな、と嬉しくなりました。

 ***
  
 ただ、この井上円了先生は、最終的に「活動主義」ということを打ち出すのです。
 自分が哲学で学んだことを、とにかく社会に還元しなくては意味がない、と。そのために活動しつづけよ、と。
 山は山であるだけでは価値がなく、木があるから山には価値がある、川は川であるだけでは価値がなく、川の水を灌漑に使えてこそ価値がある。そういう結論になったそうなのです。
 わたし、、、これにはあまり同意しません。。。。
 存在するということは、もっと無条件のなにかだと思います。それをまだ、うまく説明できないのですが。。
 もちろん、社会の役に立つということは大事なことなのですが、生きる意味の全体そのものを、そのような分かりやすいレベルの「活動主義」に落とし込んでしまうことには少し違和感を感じるのです。

 でも、この方の「妖怪研究」は気になるので、少し調べてみたいなと思っています。

 ***

 講座の第二講は、興福寺多川俊映貫首の「唯識三十頌を読む」でした。

 唯識は難解だ、とされているようなので、わたしのようなものが分かった風なことを言ってはいけないと思っていたのですが、自分が考えてきていたこととリンクすることが多いので、本当は、そこまで難解だと、わたしは思ってはいません。
 もちろん、自分が考えてきたことに、唯識のすべてを当てはめてしまうのはマズいし無理もあるのかなと思います。
 そして、ぼんやり漠然と考えてきただけなので、それを唯識の言葉で説明してもらって「ああそうだ! なるほど!」と思っているということに過ぎないのですが。。(「唯識」はものすごく厳密に説明しようとしてくれている。お話を聞いているといつも舌を巻くような気分になる!)

 唯識の考え方の中に「阿頼耶識(あらやしき)」というものがあるのですが、それは「ハイアーセルフ」とか「魂」とか、あとは「アカシックレコード」とか、そういう「ニューエイジ用語」で説明されてきたものに近いように感じられます。「阿頼耶識」の説明には、それらのいろんな言葉の概念が混ざっているようにも感じられるし、それらで説明されることで抜けている部分もあるように感じられます。
 わたし個人は、この「阿頼耶識」というものが表すなにかと、ここのところ書いている「目に見えないレベル、領域(空とか無?)」というものが意識の裏でリンクしていると思ってしまっています。
 (本当はそんなことを考えず、黙って勉強を続けなくてはいけないのかもしれません。が、つい自分の考えてきたことにリンクさせてしまうのです)

 おもしろいなと思うのは、1500年前に、このようなことを厳密に考えて理論を体系化した人がいるということです。古代インドの世親菩薩様です。
 そして、それを1300年護って研究してきた興福寺のようなお寺が日本にあるということも、すごくおもしろいです(たぶん中国ではこのような組織はもう残っていませんよね。。)。

 わたしは、人が生きる上で、このようなこと(人間の意識活動と現れる現実の相関関係)を知りたいと思い、解明したいと思い、多少無理があっても(笑)、それを言葉に残したいと思って苦闘する、そのことを、否定できないと思います。
 もしかするとそれは「不遜」なことで、人はそのようなことを考えず、ただ神(太陽、宇宙)に感謝し、ただ食べ、働き、眠り、遊び、子を産み育てればそれでいいのかもしれません。それが本来なのかもしれません。

 でもわたしは、1500年以上の昔から、いえ、きっともっと大昔から、人が自己と宇宙の成り立ちについてそうやって思考を試みているということを、尊いと思うのです。
 
 ハート形に並ぶバラ↓
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