奈良興福寺 文化講座 第194回 工事の進む中金堂再建

 ゆうべは新宿の文化学園にて行われた奈良興福寺の文化講座に参加してきました。
 第194回で、わたしは7回目の参加です。

 昨日は、第一講は ㈱瀧川寺社建築の建築技術顧問、國樹 彰さんの「工事の進む中金堂再建」、途中に瞑想、第二講が多川俊映貫首の「唯識三十頌を読む」です。

 昨日も凄まじくおもしろかった。。。

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 第一講では、現在再建が進められている奈良興福寺の中金堂について、現場を取り仕切っている宮大工の技術者である方の生のお話を聞けました。

 その國樹彰さんの会社、瀧川寺社建築さんは、去年行った奈良ツアーで一番初めに訪れて感動した、平城宮跡の朱雀門と第一大極殿を建築された会社だそうです!
 朱雀門と第一大極殿、とてもきれいだったですよ。鳥肌立ちました。
 去年の旅のブログにも、今の大工さんもすごくがんばってると分かって感動した、と書きました(こちら)。
 それを造った人の話を生で聞けるとか! 
 加えて、わたしも再建のために勧進(寄付)を少ししている(来月このための勧進能を観にいきます! でもそれだけじゃ足りたいだろうからもう少し勧進する!)興福寺の中金堂も同じ会社がしているとか、なかなか話がつながっていると感じられて、わたしは嬉しいのです。
 こちらの会社は、室生寺の五重塔の台風被害の修復も受け持っていたようで、奈良の宮大工のエキスパートということなのでしょうか。
 ㈱瀧川寺社建築さんのサイト → こちら 
 
 わたしはいろんな技術者の方の専門的な話を聞くのが好きなので、とてもおもしろかったです。
 
 奈良興福寺は奈良遷都直後の710年に藤原不比等が創建したそうですが、その中金堂は何度も焼失しているそうで、資金面のこともありしばらく仮金堂でやっていたのですが(今の仮金堂は薬師寺の旧金堂を移建したものだそうな! 先月これ見ておけばよかった!)、このたび再建することに決定しました。
 平成30年に落慶予定ですが、もう屋根もできていて、先月上棟式が行われたそうです。
 これから瓦葺きや内装などの工事が入るのでしょうか。大工さんの仕事はあらかた終わった、とのことでした。
 
 お話でおもしろかったのは、古来の寺社建築そのままで再建するのは、現在の建築法からはできないということ。
 興福寺の中金堂の基壇は1300年前のものがそのまま残っていて(礎石など66個のうち64個が1300年前の藤原不比等の天平時代のもので、とても珍しいそうです)、それをそのまま使って再建したいのですが、遺跡・遺構は残さないといけないという決まりもあるのでその基壇の上にコンクリを張って再建するとか(専門用語をきちんと把握できていないので説明が間違っているかもしれません)。
 このあたり、現役のお寺であると同時に史跡でもあるという奈良の古い寺社のご苦労が垣間見えます。。

 興福寺には大きさや材質などについての正確な記録が残っているため、中金堂はほぼ本来の姿で復元できるだろうということです。それもすごい。
 今の建築法は耐震面なども「うるさい」ため、屋根を支える柱の構造などは昔の形のままでは許可が下りなかったそうで、人の目に触れない部分で、現代の技術もたくさん使うそうです。
 大きさは日本古来の長さ「尺」を使って決めますが、この「尺」というのは800年もの間、だいたい30㎝±5㎜くらいで決まっているそうで、それだけの長い間、長さの基準が変わらないで来ているのはすごいことなんですよ、と國樹さんはおっしゃっていました。日本の大工さんたちがずっとそれを守っている、ということだそうです。
 
 材料の話もおもしろく、去年東大寺の南大門で柱の元になる木の話を聞いていて「今はどうしているんだろう」と思っていましたが、やはり日本国内に大きな寺社建築を支えるだけの木というのは残っていなくて、海外から調達したそうです。
 カナダやアメリカからというのはイメージしやすいですが(針葉樹の森があるから)、伐採法の問題があっていつまでたっても必要な量を確保できなさそうなので、なんと、興福寺中金堂の軸のために集まったのはアフリカの欅だそうです。それも、今はあまり入らなくなったそうで、大量に確保できるラストチャンスだったのでは、とのことでした。
 なんだかすごいですね。。。
 
 こういう「裏話」が大好きな人間なので、とても興味深く聞くことができました。

 あとおもしろかったのは、法隆寺など斑鳩方面にある飛鳥時代のお寺は朝鮮から来た建築技術で、奈良時代以降のお寺は唐の建築技術なのだということ。少しずつ違いがあるそうです。 
 
 中金堂、落慶がさらに楽しみになりました。
 絶対現地に観にいくぞ!!!
 
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 長くなったので箸休め↓
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 昨日の瞑想は森谷英俊執事長が指導して下さいましたが、やはり毎日瞑想をしたほうがいい、そうしないと唯識についても分からない、ということをおっしゃっていました。
 やはりそうなんだよな、と思い、瞑想も続けていこうと思いました。
 瞑想というか、心の中に静寂を置くことを忘れないようにする、ということかなあ。。そのためには瞑想がすごく効く、というイメージです。
 このあたりのことも、最近読んだ本がなかなか秀逸だったのでブログに書きたいのですが、なかなかそこまでいけないで来ています。
 なんだか宿題ばかり溜まっていく。。。

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 第二講は多川俊映貫首の「唯識三十頌を読む」でしたが、昨日から新しい部分に入り、唯識が世界の在り方をどうとらえているのか、という重要個所に入ってくるそうです(第二十頌〜第二十五頌までの範囲)。

 先日「神々の沈黙」の難所を読み終えたので、ちょっと気持ちを仏教に戻していて、夫が卒業した放送大学(30過ぎてから入学して6年かけて卒業したんですよ〜)で取った仏教の授業の教科書を読んでいます(木村清孝 「仏教の思想」)。
 これを読むと仏教の概要が掴めそうなので。
 唯識すごいぜ! と騒いでいても、結局そもそもの釈迦や仏教の成立がどういうものだったかの背景が分からないと、どこかぼやけているんですよね。。
 釈迦は仏教を興した人ではないし、やはり弟子たちが一人の「覚者」の話を後にまとめていくことで宗教になっていった、ということらしく、このあたりキリスト教のイエスと使徒、パウロの関係に似ているのかな、と思いました。
 それから部派仏教に分かれていき、大乗仏教と小乗仏教に分かれる、などいろいろな経緯があるようですが、キリスト教もいろいろ分かれていくんですよね、、そういうのは仕方がないのだろうなと思います。
 日本の仏教が奈良仏教から京都に遷っていく経緯もよく分かっていないので、そこも知りたいところです(時の権力との関わりがあるんだろうけれど。。)。
 これは「教科書」なので退屈な部分もあるのだろうと思いますが、最低限の流れは掴めるといいなと思っています。

 (しかし勉強すること多くて大変。。。)

 ***

 昨日の多川貫首のお話で印象に残ったのは「一人一宇宙」という言葉でした。
 唯識を学ばれる方が発した言葉だそうです。
 唯識仏教では、ものごとというのはその人の「認識」にすぎず、認識するということ以外にすべてのものを「体験」はし得ないのだ、と考えます。実体とか体験というのは、結局その人の認識でしかない、というか。。。
 脳科学にも通じるものの見方かなと思うのですが。。(シナプスの電気信号がどうとか)
 だから、人が一人いれば、その人の分の宇宙が一つある、そんな見方ができるということでしょうか。
 
 わたしが19歳のときに台湾で体感した「宇宙とわたしは一つ、すべては一つ」という感覚も、それで説明しうるかもしれません。
 それでもそれは至福感の伴う、とても素晴らしい感覚だったのですが。。。
 あの感覚を「超常現象」というつもりはありませんが、「シンクロニシティ」や「テレパシー」、「予知能力」などはあるとされている最新科学の情報もあるので(NHKBSの番組「超常現象」によると)、そのあたり、唯識的にはどう説明されるのかなと思っています。
 (でも「神々の沈黙」のジュリアン・ジェインズによると、科学でさえも「占い」なんだとか! おお! でも人はそういうことを本当に「無視」して生きることができるのか??)
 
 

 
 

 
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