奈良興福寺 文化講座 第195回 お寺にみる最尖端

 昨日は、新宿の文化学園にて開催されている奈良興福寺の文化講座に参加してきました。
 第195回目で、わたしは8度目の参加です。
 
 こちらの講座、だいぶ慣れてきたようにも思うのですが、興福寺のことなど知るにつれ、大変なところに来てしまった、しまった、という言い方は失礼になるのですが、そんな気持ちにもなる、という面もあります。
 昨日のブログにも書いたように、分からなくてもかまわない、まず行ってみてそれから考えよう! と、基本的にそういう人間で(射手座に水星と木星の合と海王星があるからかも)、わりとなんでもそれで来てしまった人間なので(イメージフォーラムとかチャネリングとか。。)、ある程度その場所が見えてきてからことの重大さに気づく、ということも今まで多くしてきています(汗)。

 もう少し慎重にならなくてはいけないな、と、ごくごく最近、思えるようになりました。
 でもそればかりだと「進まない」という部分もあり。。。(バランスが難しい)

 それぞれの場所で、いろんなことを学ばせていただいてきたな、という、そういうことももちろん思っています。無駄だったと思うことはなにもありません。
 ただ、自分はちょっとバカなんだろうな、ということも思いますし、それだからいいのかもしれない、ということも、少しだけ思います。図々しくてすみません。

 ***

 昨日の第一講は興福寺の辻 明俊録事による「お寺に見る最尖端」でした。
 興福寺(奈良のお寺)が日本の文化に与えてきた影響について、分かりやすく説明してくださいました。

 お話を聞いていると、、、興福寺ハンパねえ! という感じで。。
 なんといっても奈良仏教の本拠地の一つで、東大寺よりも古いわけですし、、奈良という場所そのものがすごいと思うのですが(去年行ってみて本当に驚きました)、その中の重鎮というか、「大化の改新」を成し遂げた藤原氏の氏寺とか、、、そこからしてすごいですよね。
 
 今、夫が使っていた放送大学の仏教の教科書を読んでいますが、基本的な背景が多少把握できてくると、その教科書に載るような歴史を背負って来たお寺が今も続いていて、そのお寺の現役の僧侶、貫主からのお話を、東京で(しかも子供の頃から遊びにきている新宿で)聞けるというのが、、、考えてみるとすごすぎてのけぞってしまうようなことだな、と思ってしまいます。

 昨日のブログでも書いたように、ここまでのものだと、さすがに尻込みしてしまいたくなるというか、、、まず最初にすべきだったのかもしれないのですが、、、しなかったわけで(汗)。。。
 そしてもちろん、興福寺の僧侶(という言い方が、わたしはイマイチピンと来なくて、先生、という気持ちのほうが近いのですが、でもそれも錯誤があるのだろうなと思います)たちは、一般の人々に尻込みして欲しいとは全然思われていないのだと思いますし、それは、横山幸雄さんだって、どんな人だって、まじめに道を追求している人はそうなのだと思います。
 これは、ひとえに、受け取る側の人間の問題なのですね。

 ***

 興福寺の五重塔というのは、5回焼失していて(そのうち4回は雷の被害だそうで、やはり高くて尖ったものは雷を引き寄せるのですね。今は避雷針があるのでよかったです)、今あるものは鎌倉時代に建ったもので、600年ほど立っているそうです。
 10万枚を超える瓦が使われいていますが、崩れることなく今も現役で立っておられます。
 去年の写真ですが↓
  1310nara2kohukuji1.jpg
 五重塔は地震には強いらしく、揺れを分散させるのだそうです。でも、科学的には「なぜ倒れないのか」ということは、まだ解明されていないのだそうです!
 構造的には「心柱」というものが使われていているそうですが、それは東京スカイツリーにも使われているとか。
 昔の技術が今にも通用しているということで、そういう重要な技術というのは、1000年以上も前にもうできている、ということがあるのだと思います。
 仏像などにも同じことが言えるのだと思います。基本の型や技術はもうずっと昔に完成しているというか。。。
 おととしの暮れ、ツタンカーメン展に行きましたが、エジプトでは3000年前にもう立派な美しいものが創られていて、今も遺っていたりするのですよね。
 現代の人間は、それを応用しているにすぎないのだろうか、そんなことも思います。

 興福寺は現代に生きるお寺でもあり、なんと、米Apple社と、2009年にアプリの開発もしたそうです!(ちょwwww)
 まだスマホが普及する前のことで、今はもうなくなってしまったそうですが。。。見てみたかった。。
 興福寺の国宝館のお土産売り場でも思いましたが、興福寺は現代的センスもすごくあるように思え、オシャレというか、センスのいいものがたくさんあるんです。まずお土産を入れる袋がオシャレなんです。捨てられない(笑)。すごいなあと思います。

 そうそう、5月に行ったときに買いそびれた興福寺が開発した「精進ふりかけ(あを・丹・よし)」ですが、昨日チラシもいただいたのですが、ベルギーに本拠地がある国際味覚審査機構(iTQi)という、大変に権威のあるところのコンテストで「優秀味覚賞」を獲られたのだそうです。一流レストランのシェフたちが審査するもので、それも最高の三ツ星だそうで、総合評価90%以上の「極めて優秀」という栄誉あるものだそうです。こちらの賞は「食品のミシュランガイド」とも言われているのだとか。
 ・・・・・あああああああ! 食べてみたいっ!!!
 でも奈良に行かないと買えない。。。また行かなくちゃ。。。。。(遠い目)

 そういうことからも分かりますが、現代に生きるお寺として、全然「過去のもの」にはなっていない、それが奈良興福寺であるようです。

 ***

 途中休憩を挟んで「瑜伽(ゆが、瞑想)の時間」となりました。
 この「瑜伽」というのもなんだか分からなかったのですが、教科書を読んで、「ヨガ」のことだったと分かりました(笑。「ユガ」という音だけで、お風呂に関係することかなあとか漠然とイメージしてしまっていました)。
 友人でヨガのインストラクターの資格を取った人がいて、少し話を聞いたことがありますが、ヨガってあの独特のストレッチのことを言っているのではなくて、そもそも哲学から発しているものなのだそうですね。
 インドで興った仏教にも、元にはその思想がある、とのことで、唯識仏教では瞑想も重要視するそうなので、ヨガとのつながりはやはりあるのだな、と思いました。

 ***

 第二講は多川俊映貫首の「唯識三十頌を読む」でした。
 今、玄奘三蔵が訳した「唯識三十頌」の中の、重要なところをやっているそうです。

 この玄奘三蔵というのも、、、考えてみると、わたしは子供の頃、ドラマの「西遊記(夏目雅子主演のもの)」と、ドリフターズが声優をやっていた人形劇の「西遊記」、どちらも大好きで毎週楽しみに見ていました。
 大人になってからは、友人から教えてもらって、中国で放送されていた本場の西遊記のドラマを見させてもらったこともあります。
 どれもすっごくおもしろかったです。
 そして、あれの、あの、三蔵法師様が玄奘三蔵なんですよね。。。
 玄奘三蔵が西域を旅をして持ち帰った教典の中に「唯識三十頌」の元になるものがあったってことですよね。。。
 「悟空!」って怒りながら三蔵法師が唱えるお経の中には、唯識の元のものもあったと考えてもよいかもしれず、、、聞くと「ウワーーーッ」と孫悟空の頭が痛くなるお経がそれかもしれないんですよね。。。
 確かに、、、、「ウワーッ! ああああ、、そうだったー!!」と頭を抱えてしまう、そういうものかもしれないです。
 
 せっかくありがたいお話を聞いていても、つい忘れてしまうんです。 
 情けないものです。

 ***

 最近、海外では「あなたの宗教はなに?」という質問とその答えがけっこう重要視される、という話題をネットで読みました。
 日本人は「無宗教です」と答えることに抵抗がない人が多いようですが、それは外国人からすると「規範を持たない人」と見られるそうで、信用問題に関わる、という意見がありました。
 最近唯識を少し聞きかじったこともあるので、そして金沢でも寺の檀家には入っているので(お墓があるという意味ですが)、わたしはその質問には「仏教です」と答えることになるかなと思うのですが、厳密な意味での「信仰」や「宗教」というのが、自分にリアルに分かるのか、と言われれば、ちょっと分からない、というのが正直なところだと思います。
 子供の頃からの環境が、そういうものが厳格にあるものではなかったのですね。葬式仏教くらいしかなかったし、初詣くらいしかなかった。
 「宗教」というものを斜めに見てしまう、そういう土壌の中にいた、とも言えると思います(母親はどちらかというと共産主義的な考えがある人でした。でもそれもきちんと勉強したものではなくて、なんとなく、というレベルです)。

 そのネットで見た話題で、おもしろい意見があったのですが、お互いに戦争までしているキリスト教徒もイスラム教徒も、仏教とは対立しないけれど、それはなぜか、ということを西洋人に訊いたら、「仏教は人の生き方をつきつめた『哲学』でもあるから、信仰的に対立しない」という答えが返ってきた、というものがあったのです。
 それは、わたしにも納得のいく意見に思われました。
 なんとなく、わたしは今まで、唯識のお話などは、「生き方指南」のような感覚で聞いていた部分が多かったと思います。
 あと、自分が今まで精神世界(ニューエイジ)などで学んで考えてきたことと重なる部分があるので、その比較を心の中でしていたり、感嘆していたり、という感覚です。
 それはもちろん、「宗教的な態度」ではないのだろうと思います。 

 昨日のブログにも書いたように、わたしは自分がなにかに感動すると「いいもの見つけたよー、すごいものあったよー!」と人に話したくなるので、結局ほとんどすべてがそのノリである、ということは、認めないといけないのだと思います。
 そういうノリなので、あれもこれも、となってしまうのですね。
 自分がなぜそうするのかといえば、それは、この地球に生まれてきてよかったのだ、と思いたいから、に他ならないのですが。。
 まあ、「自殺防止」のような意味もあります。 
 この地球、捨てたもんじゃない、と思いたいのですね。
 そしてもっと見てみよう、と思いたいのですね。
 (そしてできれば、自分以外の人も、そうなればいい、と思っている。でも、それは余計なお世話なのだ、とも、思っている)
 そうなんですが、、もしかすると不謹慎なのかなあとも思います。
 でもたぶん、自分のこういう性質は、なかなか変わらないのかなあと思います。
 それが、宗教的な態度にはつながらないのかな、とも、思うのです。
 というか、宗教的である、ということが、よく分からないのですが。。。

 そういうこともあるからこそ、興福寺の文化講座にも通わせていただき、お話を聞いていきたい、と思うのであります。

 以前見つけていたあじさい↓
140718ajisai.jpg


 
 
 
 

 
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