奈良興福寺 文化講座 第201回 玄奘三蔵こころの旅〜唯識思想を求めて〜

 昨日は、新宿(住所は渋谷区)の文化学園にて行われた奈良・興福寺文化講座に参加してきました。
 201回目の講座で、わたしは14回目の参加となります。
 今年の文化講座が始まり、毎回楽しみにしているので今年も無事に参加していけるといいなと思っています。
 わたしはときどき体調を崩すので、そういう調整も気をつけなければと思うわけですが。。

 おとといの水曜日、先月の文化講座の後読みはじめた、多川俊映興福寺貫首の「唯識 こころの哲学」を読み終えたところで(わざとじゃないのですがタイミング的にそうなりました)、すぐに文化講座だったので自分にとって「よい流れ」だったかなと思えます。

 わたしはチャネリングもたまにするし、西洋占星術にも子供の頃からずっと取り組んでいるし、西洋のタロット占い(しかもユニコーンのもの)もしているわけで(しかも「仕事」にしていく気持ちなわけで)、、仏教の勉強も、とするのは欲張りにすぎるのかもしれませんが、どうしてもおもしろいのですね、仏教の勉強が。わたしのような者がお門違いなのかしら、という想いはずっとあるのですが、あまりにもおもしろいので、、、どうしようもない、という気もしています(「出会ってしまったものはしょうがない」という感じ)。
 「おもしろい」という言い方は失礼なのでしょうか。でも一番気持ちに近いのが「仏教はおもしろい」なのですね。それは「唯識仏教」ということなのですが。。

 自分の中では、チャネリングや占いのことと、仏教というものは対立はしていないのですが(だって自分のチャネリングで言われることと、唯識仏教で言われていることには共通している部分があるように思うので)、それはそれぞれのものを「軽く考えている」からなのでしょうか(自分ではそうは思っていないつもりなのですが)、、このあたりのこと、ずっと難しいなと思っています。

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 昨日は講座の後食事して帰宅↓
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 一人で外食したの少し久しぶりだったかも。。

 昨日の第一講は駒澤大学佛教学教授の吉村誠さんの「玄奘三蔵こころの旅〜唯識思想を求めて〜」でした。
 吉村先生のご専門は中国仏教思想史で、特に中国唯識思想史について玄奘の事跡を中心に研究されているそうです。最近「中国唯識思想史研究-玄奘と唯識学派-」というご著書を出版されたそうです。
 
 昨日のお話がとてもおもしろかったので読んでみたいけれど、ちとお高い。。。(汗)

 昨日は、7世紀初頭に中国に誕生した玄奘三蔵が、なぜあのような過酷な「西域への旅」をしたのか、その原動力はなんだったのか、というテーマのお話でした。
 それは、唯識仏教をきちんと収めたい、という欲求からではないのか、ということで、当時の中国では、唯識思想は伝わってきてはいたのですが、正確さには欠いていたそうでいろいろな解釈が可能となっていたため諸説あり、その辺りを本場に行ってハッキリさせたいということだったのではないか、と吉村先生はお考えなのだそうです。
 とてもおもしろいお話で、玄奘三蔵様の人間像がより見えてくるように思いました。

 吉村先生ご推薦の玄奘様に関する図書も紹介していただいたので、さっそくAmazonで古書を見つけて注文してしまいました(笑。多川貫首の本を読み終えたところだったのでちょうどよかった!)。

 昨日の吉村先生のお話で一番印象に残ったのは、唯識を体系化させたのは、5世紀北インドにいた無著(むじゃく)様と世親(せしん)様なのですが、このお二人は兄弟で、お兄様の無著様が、弥勒菩薩(マイトレーヤ)から教えを受けて、唯識の基礎を築き、弟の世親様がそれを「唯識三十頌」にまとめた、という箇所でありました。
 唯識仏教の伝統では、この「無著が弥勒菩薩から教えを受けた」という部分は、兜率天(とそつてん)というところに昇って教えを受けた、と考えるとの部分です。
 それは、つまり、たぶん、システム的には、チャネリングをした、ということなのではないか、と、わたしは思ってしまいました。
 瞑想の中でそういうものに出会った、という言い方をされていたと思うので。。。どこか外部に「弥勒菩薩(マイトレーヤ)」にあたる人物が実在して教えてもらった、と近年の学者は考えたがる、とのことでしたが、そうではなく、瞑想しながらそういう天の領域に足を踏み入れて教えを受けた、ということなのではないか、とおっしゃっていました。

 こういうことを書くとわたしもチャネリングをするので、難しい感じがしますが、やはり、古代から人は瞑想をしてなにかいつもと違う精神的領域に入って、なにか声を聴くであるとか、考えをいただく、ということはあるのだろうなと思っているので、唯識にも元にそういう現象があったのではないか、ということは少し驚きました。

 チャネリングをするとき、気をつけることとして、なるべく「高い存在」とつながるようにする(低い霊とつながると人生が混乱するため)ということはよく言われることなのですが、その存在が「弥勒菩薩」である、というのはすごいなあと思います。
 わたし自身は、自分がチャネリングする「対象」について、あまり深く考えないようにしてきました。自分が新興宗教のグルのような、そんな感じになることを避けなければいけないと思ってきたからです。なので、いつもその「言葉の内容」に注目するようにしてきました。わたし自身はチャネリング自体はさして努力なくすぐにできるようになってしまったし、すぐにそれで他者に提供するセッションを始めてしまったので、そのあたりを追求することは避けてきたと言ってもいいと思います(努力が必要だったのなら、もっと体系的にいろいろなことを考えてきたのかもしれません。逆に今になってそれをしている、という気もします)。
 ですが、仏教の中で、このような考え(在り方?)の流れがあるのか、ということに、少しショックを受けました。

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 第二講に入る前におトイレ休憩と瑜伽(ゆが・瞑想)の時間となりました。
 
 最近お腹の調子が思わしくなく(ツキノモノが新月と共にやってきたため)、休憩時間におトイレに行きましたが「決壊」はなく(汚い話ですみません)、でもなんとなくお腹がぐるぐるしそうだなあという感じはあり、第二講の多川貫首のお話の最中に耐えきれなくなったらどうしよう(汗)、と思っていました。

 ですが、瑜伽のために腹式呼吸をして心静かにしていたら、なんとお腹があったかくなってくるじゃないですか! お腹のぐるぐる感も消えていきました! びっくり!
 よく、腹式呼吸をするとお腹の冷えが消える、という話を聞いていましたが、こんなに実感できたのははじめてかもしれません。そもそもお腹がぐるぐるしそうなときに瞑想しようとしてこなかったので。。。
 お腹の不調は今日も治まっているようです。

 うーん、、、瑜伽!
 
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 第二講は多川俊映貫首の講義でしたが、先月「唯識三十頌を読む」は最終回と言われ、今月から新しい講義になるとのことだったのですが、昨日は「唯識三十頌」で大事な箇所の復習ということになりました。
 多川貫首の唯識に関するご著書を読んだ後で、少し名残惜しい感じがしていたので、これはとても嬉しい展開でした。

 わたしは最近、ご承知とは思いますが、タロットのことで動きを作ろうとしています。
 でもこれを言ってしまうと元も子もないとは思いますが、仕事にするといっても、すぐにどうこう盛り上がらなくてもよいのです。5年、10年、20年というスパンでやっていけたらよいなと思っていることなので。
 ですが、やはりなにか働きかけをすると、心が焦ったり、効率を考えてしまったりします。人と自分を比較することも相変わらずです。
 そんな中で、多川貫首の「唯識 こころの哲学」を読むと、はやる気持ちを抑えることを思い出せていました(実際に抑えられたかはともかく、そうするべきである、ということは思い出せていた)。
 
 唯識仏教では、すべてのものは「その人の心がそう見ている(解釈している)」ということで、人はそこから逃れることはできないから、すべては心の問題である、という考え方を採ります。
 だから、自分で「これはこうに違いない」などと思っても、それは「妄執」なのだ、ということを言われるのです。結局は自分の脳を介してしか判断できないのだから、ものごとをそのままに「見る」ことなどできない、という風にわたしは解釈していますが。
 人はそのように、自分のしたいようにしか解釈しないし、心にはよくない働きもあります。
 唯識ではそのような教えがあります。
 身が引き締まりますよね。。
 
 わたしも最近、なんとはなしに浮ついてしまっているので、昨日はそのあたりのことを復習して、喝を入れてもらおう! と思っていました。

 ですが、昨日の多川貫首のお話は、そういう人間の「低い」部分の話ではなく、それでも、そんな人間の中にも、「善」の心の働きがあり、善き者になろうとする心が付与されているのだ、というものでした。
 お話の大きな部分を占めたのは「信」という唯識で考えられる心の働きの部分で、「自己を真理に委ねる」というものです(真理とは、すべてが縁起によって起こり、この世界に不変のものなどない、ということで、それを身体で受け止めることが「信」の一つの要素になるそうです)。
 人の心の中には、そのような心の働きをする部分がすでにある、ということでした。

 これは、、、「不善の心の働き」をいさめましょう、という話よりも、、、より重要な責任をつきつけてくるお話でありました。

 「所詮ダメなところがあるんだから、わたしなんて」と言えば、逃げることができます。
 仏の道を歩むというのは、それをしない、ということでもあるようです。
 「ダメなわたしだから」と言えるのは、少し楽なことです。
 「自分にはそのような『善』の性質も与えられているのだ、ならばどうする?」そう考えるほうが、人生への責任が重くなります。
 唯識仏教とは、そのことをつきつけてくるものであるのかもしれません。
 少し誤解していたかもしれません。人間存在の「よくないところ」に注目して、いさめる方向が強いのだと思っていたので。。

 ***

 第一講の吉村先生のお話、唯識仏教を創ってきた人々は、折りに触れ「兜率天」に昇って弥勒菩薩から教えをいただいていた、ということに対して、多川貫首から反論のようなものはありませんでした。
 むしろ、積極的にいろいろな菩薩様の仏像などで自分が共鳴できるものを見つけ、心の中でそれに向かって祈るのがよい、とおっしゃっていました。

 最近イスラム教の問題が大きいので、イスラム教が禁止する「偶像崇拝」についても考えていましたが、唯識仏教では偶像崇拝を否定しないのですね。
 あんなに素晴らしい仏像がたくさんある興福寺ですから、当然でしょうか。
 あのような美しいものを毎日見られたら、心だって清らかになりますよね。。。(憧)
 
 昨日多川貫首は、昔にあった三井物産の社員誘拐事件のことに触れ、人質となった方が、幽閉された部屋の中に観音菩薩様が現れたのを見て、その場所に気持ちを向けることで耐え抜いた、という話をされていました。
 そのようなときに、そういうものが現れるという「機能」が、わたしたちの中にある、とのことです(それを「サードマン現象」とも言うように思うのですが、そういうことをそのような「現象」の問題として考えるのは、科学的な態度であって、信仰心とは別物であると思われます。でもそもそも「科学的な態度」も「妄執」なのかもしれない。。)。
 心の中にふと浮かぶイメージなどには、不思議な力は、やはりあるのだろうと思います。
 よいイメージを持つことで力づけられたりということも、あると思います。
 
 わたし自身は、今まであまり特定の宗教に対する「信仰心」というものに縁がなく、信仰というものについてよく分かっていなかったのですが、漠然と抱いてきた「信仰」に対するイメージと、唯識で言われる「信」という心の働きには、大きな隔たりがあるようです(盲信せずに、知的に考えることも求められている)。
 信仰心というものから距離を取っていたのは、自分がチャネラーである、ということも大きな関係があったかもしれません。
 「日教組の左翼教育を受けた世代の日本のチャネラー」。

 いろいろと思うことがありすぎてとりとめなく、長くなってしまいました。申し訳ありません。

 このようにいろいろと重要なことについて教えて下さる興福寺文化講座、これからも参加させていただきたいと思っています。

 
 *おまけ*
 帰りにユニクロで買いました↓
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 リサ・ラーソンの柄のルームシューズ。スリッパがへたってヘナをこぼして汚してしまったので買い替えです。なかなかよい履き心地です!    
 
 

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