お伴の本

 先ほどの空↓
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 少し陽射しが出て嬉しくて写真を撮ったけれど、今また雲に覆われてしまった。。
 左下にある樹はクヌギかミズナラの樹です。
 枝先にもじゃもじゃついているのは葉っぱではなくて花です(それらは秋になるとどんぐりになり、この樹からアスファルトへどんぐりが落ちる音が聞こえます。「ぱすっ、ぱつっ、てんてん」というような音。「てんてん」は落ちたどんぐりがバウンドする音です(笑))。
 一週間前にはこの樹は枝だけだったのに、今はこのようににぎやかになっている。
 春ってすごいなと思います。毎年思うけど。

 ***

 夫は今日は休みで床屋に行っています。来週後半また金沢なので、行けるときに行くとのこと(手術の予定は変わっていないようで、順調に行けば17日です)。
 あとでどこかで落ち合って夕ご飯を食べてくる予定です。まあ地元のファミレスかなあ。国分寺くらいなら行ってもいいかなあという気もしますが、あまりにぎやかな中にいたいとも思えないのでどうだろう。
 かといって物欲がないわけではなく、さきほどAmazonで本をいくつか注文してしまいました。
 ていうか「本が欲しい」っていうのは物欲なんだろうか?
 
 先日までの金沢滞在のお伴にした本は中村元先生の「ブッダのことば スッタニパータ」でした。
 「数多い仏教書のうちで最も古い聖典」と言われるものです。
 
 これを買ったのは2013年12月末だそうで、、まだ全然読み終わりません(汗)。
 こういう本を一気に読める人ってすごいと思います。。
 滞在中、読み進めるということはできなくて、今まで読んだところを読み返していました。
 こちらの本、内容的にものすごく難しいということはないのですが、一つ一つの内容がシンプル故に深くて、少し読むと「はあ。そうだよなあ」と思って深く満足してしまい、しばらく時間を置いてしまうという感じが続いています。
 蛇足ですが、今回お義母さんのことが分かってから、久しぶりにこの本を手に取って、それまで読んでいた箇所の続きから読もうとしたら、そこは「矢」の章で、けっこうガツンと来ました。
 今その内容に触れるのは、ちょっと厳しいものがあるような気がするのでまたいつか改めて書けたらいいなと思いますが、ちょっとここのところ、そういう出来過ぎな偶然やら不思議な感覚などに見舞われていたりもします。

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 仏教の本は、読んでいると心が静かになるのを感じます。
 占いの本や、スピリチュアルな本では、そのようにはなりません(むしろ「ぅお〜〜」っと興奮する方向かもしれない)。
 これが不思議だなと思います。
 なんだろう、言い訳できない感じ、言い訳無用な感じ、「まな板の上の鯉」みたいな気分になれることが、わたしの心を鎮めるのかもしれません。
 それは「あきらめる」という感じとも少し違っていて、、ある意味「究極にあきらめる」ってことなのかもしれないけれど、、それがなんだか心地よいのです。
 これ、、あまり分かっていただけないことだろうと思うのですが、高速バスに乗るのも、「究極にあきらめる」感じがして(何時間も「まな板の上の鯉」状態になる。拘束され自由はなく、自分でできることなどわずかで、ただそこにいるしかないという感じ)、わたしはそれが嫌いじゃないのですね。それはずっとそうなのです。高速バス、嫌いじゃないんだな(もちろん、ゆっくり車窓からの景色を楽しめるなどのことも好きです)。
 「ああもう、着くまでなんにもできないや」と思うと、心と身体が妙に休まるんです。あの感覚はわたしにとっては貴重で、ずーーっとボーッとしています。ナマケモノかしら?

 ***

 もちろん生きていく上では、「自分でどうにかしなくちゃ」と思うことも大事なんだけど、、どうにもできないことだってたくさんありますもんね。
 そのことを受け入れるという感覚が、わたしはけっこう好きなのだと思います。
 被虐的なつもりはないです。
 それは事実なんだもん。 
 人生には自分の力ではどうにもできないこともたくさんある(若い頃にはそれを許せないと思っていましたが)。

 これ、「どうにもできないことがある」という事実が好きなのではなく(抵抗の余地があるならば、するべきかもしれないから)、「事実に従う」ということが好きなのかなと思いました。
 それは、どこかで安らぎをもたらすことなのです。
 仏教の本や教えに触れていると、そのことを自覚させられます。

 次に金沢に行くときも、仏教の本を持っていこうと思っています。

 
 

 
 
 
 
 
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