奈良興福寺 文化講座 第204回 唯識思想の人間観(上)ー相と性ー

 昨日の新宿西南方面空↓
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 昨日は夕方から、新宿西南エリアにある文化学園で行われている、奈良・興福寺の文化講座に参加してきました。わたしは17回目の参加。
 先月暮れに金沢のお姑さんのガンが見つかり、入院手術でわたしたちも金沢入りなどばたばたしていたので、なんだか久しぶりに感じられました。新宿の雑踏を歩くこと自体久しぶりに感じられましたが、今、新宿にはほんとに中国人観光客が多いですね。去年春はここまでじゃなかったような。
 なにかこう、、時代の変化のようなものも感じています。

 昨日の第一講は東洋大学・東海大学非常勤講師である橘川智昭先生による「唯識思想の人間観(上)ー相と性ー」でした。
 今月から始まったこちらの講義、全部で3回シリーズだそうです。
 
 わたしが参加させていただいているこちらの文化講座を主催される奈良・興福寺さんは、「法相宗(ほっそうしゅう)」という宗派のお寺で、法相宗は「唯識思想」というものを伝える仏教の宗派で、中国の慈恩大使様が宗祖です(中国からインドへ経典を求める旅をした玄奘三蔵法師様は法相宗の「鼻祖」とされています)。
 わたしはなぜかこちらの興福寺さんにご縁をいただいたようで、今、けっこう熱く「唯識仏教」を勉強させていただいています。
 自分としては「唯識思想」はすっごくおもしろいのですが、「唯識」については今まで興福寺の多川俊映貫首のご著書でしか読んでおりません。
 ちなみに、今は多川貫首の「貞慶『愚迷発心集』を読む」を読んでいます。その他に多川貫首の「心に響く99の言葉」も読んでるし、以前にされた文化講座での講義内容をまとめたという橋本芳契さんの「維摩経による佛教」という本も取り寄せています(これって「貪り」なんだろうか。。。でも、、、今いろいろあるので、これらの本を買っておきたかったんですね。。。)。
 加えて中村元先生と三枝充よしさんの「バウッダ」という本も読んでいます。「スッタニパータ」も読んでいて、いくつか金沢に持っていくつもりです。
 
 このように奈良・興福寺に伝わる「唯識思想」というものに共感を覚え、熱烈に今その勉強をしているのですが、それは単に「ご縁をいただいたから、ありがたいから」というような理由でそうしているのではなくて、その内容に「はあ、これはすごいな」と思う部分があるからです。

 昨日から始まった橘川先生の講義は、わたしが「唯識思想ってすごいな」と思ったものの代表の一つについて、これから議論されていくようです。

 それがなにかというと、唯識思想では、簡単に言ってしまうと「人は皆がすべて、ブッダのような悟りを得られるわけではないのではないか」ということを言っているという部分です。
 
 わたしのような者がろくに勉強もしていないのにそこだけ切り取って書いてしまうことはとても危険かとは思いますが、あまり詳しい専門用語をここで書いてしまうとかえって収拾がつかなくなる気がするので(汗・ずるいですかね)、唯識思想にはそういう視点がある、ということにとどめさせていただきますが、これってすごくわたしにとっては新鮮な視点だったのです。

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 わたしは長らく「ニューエイジ思想」に触れてきて、21歳からは自分でもチャネリングなどをしてきました。
 その中で、うーん、、、やはり、この問題、「誰でも『悟れる』のか=自在の人生を歩めるのか」というのは、あまり表立っては語られていないけれど、大きいものではないかなとずっと思ってきています。
 表向きは、「誰でも」とされているようなイメージがあります。ニューエイジの中でも。
 でも、、、「誰でも」とされることで、、「自分を律する」という必要性がないがしろにされてはいないか、と、ずっとそう思ってきています。
 世の中には、誰でも簡単に、想い通りの人生を歩めるよ、というような「自己啓発本」などがけっこうあるように思います。それと「仏教の悟り」はまた別のものだけれど、どこかで共通するものもあるように思えます。
 そういうニューエイジ的なものを見てきて、、、正直ちょっと共感できなくなっていて、いろいろと彷徨した先に、この「唯識思想」に出会った、というのが、自分の実感であります。
 
 それと、自分のチャネリングにおいてですが、自分にいろいろな発想をくれる(と感じられる)存在たち(と感じられるもの)は、わたしに対して、「なんでもいいから自由にしてればそのうちよくなるよ」とは、あまり言ってきていないように感じます。
 やはり、自分の意識をよりよい方向に向けて、ある程度の意思を持つことが大事だ、というニュアンスで、ずっと「指導」されてきているように感じています。なんでもいいから自由にしなさい、と言われたことはないように思います。
 意思だけではどうにもならない部分は、手放す、ということも言われているかもしれないけれど。。。そして、「自由」ももちろん大事なんだけれど。。

 「ニューエイジ思想」ってひとまとめにできるものではなくて、哲学的な視点からまじめに考えているものもあるけれど、自由主義のヒッピー文化を継承しているものもあって(それに商業主義も加わっている)、それらがいっしょくたになっているイメージもあり、まじめに接すれば接するほど、いろいろと混乱する部分もあると思います。
 まあ、そんなわたしがたどり着いたのが「誰でもOKとは言えないのではないか」ということを提示した「唯識仏教」だったのですが。。。
 そうですよね、そう考えないと、いろいろと無理がありますよね、と思ったのですね。そこに触れて。

 ですが、仏教では大前提として「人にはみな、仏(悟りを開いた人)となるための種もある」とも言われているのです。だから唯識の考え方は矛盾しているようにも思えます。
 そのあたりで、唯識仏教というのは長らく論争の的になっているようで、日本仏教である天台宗とのバトルの歴史(ひどい書き方・笑)もあるそうです。
 今月から講義してくださる橘川先生は、どちらかというと、唯識に対して批判的な立場におられる先生の元におられたそうで、だからこそ唯識を研究されていたのだそうです。
 
 そういう重大テーマについての講義ということで、楽しみだなと思います。

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 休憩時間の後、瑜伽(ゆが。瞑想)の時間となりましたが、昨日は全然集中できませんでした。。とほほ

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 昨日の第二講は森谷英俊・興福寺副貫首による「現代社会と阿闍世王」でした(昨日は多川俊映貫首は用事があるということで代講となりました)。
 最近は「イスラム国」などのテロも激しく、ネットでそれが喧伝されて乱世と言えるような雰囲気もあります。
 元にあるのはイスラム教世界とキリスト教世界の対立であり、仏教も世界宗教の一つとされていて、ではその宗教を支える「宗教心」というのはなんだろう、というテーマのお話であったと思います。

 まず森谷副貫首は、中東を中心とした古代文明の中で宗教が立ち上がる元がどこにあったのかのお話をされました。
 紀元前1300年代のエジプトのアメンホテプ王が、世界ではじめて「一神教」を発明した、というところに源流があるのではないか、とのことでした。
 アメンホテプはツタンカーメン王の父親で、それまで多神教だったエジプトの信仰の中にいた太陽神を唯一神(最上神?)としたそうです。
 これって、ものすごい「発明」だったんだろうなって思いますよね。。。古代社会というのは、だいたい多神教らしいので、そこで一つに決めるというのは、発想の転換としてすごいことだと思います。 
 前に読んだジュリアン・ジェインズの「神々の沈黙」によると、紀元前1200年前後に地中海沿岸地域に天変地異など多発し文明がかなり混乱し、人々の流動が激しかった(=乱世)時代があるのですが、そのあたりの過酷な状況・環境が、人々からおおらかさを奪って、、、一神教の発想を受け入れる素地になったのかもしれません(ちなみに、その時代の前まで多神教の中にいた人々は、それぞれが神の声を聞くことができた=ある意味チャネリングしていた、とも考えられるそうです)。
 
 その後ユダヤ人がエジプトから追い出され、イスラエル王国ができユダヤ教が成立し、キリスト教が興り、その後ムハンマドの出現によりイスラム教も興ります。その中でキリスト教世界とイスラム教世界の対立が起こりはじめます。
 当時はイスラム教の地中海地域のほうが経済が豊かだったため、キリスト教徒のヨーロッパ人はその富を奪取することも求るようになり、十字軍派遣などにつながっていく、ということなのだそうです。

 学校時代世界史で少し勉強したことでしたが忘れていたし、今、「イスラム国」の問題などもあるので、それが今でも続いているということを考えさせられます。

 そこで森谷副貫首は、仏陀がまだ世にいた頃にインドで王様だった阿闍世(あじゃせ)王のお話をされました。
 権力に取り憑かれ、父王を殺してしまった阿闍世王が、仏陀に人間の罪の本質について訊ねたときのことがお経になっているそうで、そこを抜き出してくださいました(「阿闍世王経』二巻のうちの、「佛説阿闍世王経」)。

 それをまとめると、人が罪を犯す理由は、権力や自我などの実体のないものに執着するからで、それらには実体がないということを知らないことがそもそもの問題で、そのことを説く仏教をよりどころとすることで、人は罪を犯すことから距離を取れる、ということのように思いました。

 講義の始まりと終わりに、「すべてのものには確固たる実体などはないのだ」と説く般若心経を唱えました。
 最近、夫も般若心経の本を読んでいます。舅が般若心経をそらんじられる人で、そのことへの疑問がずっとあったそうなのですが、わたしがいつも仏教の話をしているから、ちゃんと読んでみようという気になったそうです。
 このお経を「理解する」のは難しいのでしょうけれど、、、とにかく、心をどう保つのかということが大事なのだと思うので、触れてみて、少しでもヒントにしていけたらと思っています。
 
 


 
 

 
 
 
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