奈良興福寺 文化講座 第207回 入門 般若心経 -その4-

 おととし奈良に行ったときの写真を再掲↓
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 興福寺の五重塔。
 なんだかわたしはこれが一番好きなんだ、という気がする。。どこのお寺のお堂や塔よりも(といっても行ったことない場所ばかりなのだけれど)。
 だっておととしの奈良旅行以来、この五重塔がふっと脳裏に浮かぶことが多いんです。
 
 昨日は南新宿エリアにある文化学園で行われている、奈良興福寺の文化講座(207回)に行ってきました。
 昨日は台風の影響で天気が悪く、直行直帰で新宿の写真なども撮らなかったので、五重塔の写真を引っ張りだしました。
 来月の1日・2日にも奈良に行くので、五重塔との「再会」も楽しみです♪
 (夏の間、興福寺さんは「中金堂再建現場の見学」と「ご講話と北円堂の見学」という企画をされますが、中金堂の見学は応募が間に合わなかったので、わたしは2日のご講話と北円堂の見学のみに参加させていただきます。中金堂の工事現場の公開はこれからもあるのでしょうか。。また「リベンジ」をしなくてはいけなくなりました)

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 昨日の第一講は、森谷英俊興福寺副貫首の「入門 般若心経 -その4-」でした。
 
 般若心経は金沢の舅が諳んじていたお経ですが、わたしも最近暗誦できるようになりたいなと思っており、今は「得阿耨多羅三藐三菩提(とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)」のところまでどうにか覚えました(もう少しでゴールだ。。でもこの先にたくさん出てくる「咒(しゅ)」という言葉が難しいような気がする。。)。

 森谷副貫首はこの「入門 般若心経」で、必ず般若心経の中で説かれる「空」についての説明をしてくださいます。
 やはりこの「空」というものをどう考えるのかは難しいのだと思います。
 わたしはつい「空洞」のイメージを持ってしまいます。「空洞」にならないと「入ってくるもの」がないから、空と色は表裏一体、とか、そういうイメージです。でもこれもきっと間違っているというか、自分の願望や価値観を反映させているものにすぎないと思いますが、人間である限り一人一人が「独自解釈」するしかできないと思います。そして、森谷副貫首は「それでいい」とおっしゃってくださっていました。
 でも、やはりこうやってずっと続くお寺の講座で勉強できるほうが、独自解釈で「暴走してしまう」のを避けることができるのだろうと思います。「共通認識」のような部分から離れずにいられる。
 そこを無視してしまっては、「勉強」にはならないのかな、と思いました。
 わたしは「好き勝手」をしたいのではなくて「勉強」をしたいので、ほんとにありがたいなあと思っています。

 「ああ、そういうことかあ」と思ったのは、仏教においての「無」と「有」の考え方を説明してくださった部分です。
 ちょっとわたしの頭ではうまく説明ができないのですが、仏教では、「事実」と「概念(観念、言葉)」を明確に分けて考えるのだ、ということでした。
 「事実」を見れば、すべては変化し「諸行無常」なので、有るとか無いとか考えること自体が意味がなくなるのですが、観念や概念、言葉の上では様々なものは「ある」と判断している、それがわたしたちだ、ということのようです。
 で、「ある」ということで執着を起こしてしまって困ったことになりがちだから、「『事実』としては絶対的なものなど無いんだよ」ということを思い出してみなよ、と言っているのが仏教だ、ということなのかな。。
 書いているうちに分からなくなってきました(汗)。

 今、「バウッダ」という仏教の解説本のラストあたりまで来ていて、大乗仏教についてずいぶん背景など分かったし、それが終わったら「維摩経」の本に本格的に入っていく予定なので、もう少し「空」の考え方について、慣れてくるかなという気がします。
 勉強することたくさんあって楽しいです。

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 おトイレ休憩の後は瑜伽(ゆが・瞑想)の時間となりました。
 昨日も一瞬しか集中できず。。。途中、瑜伽の時間なのだということをすっかり忘れて、食べ物のことを考えていました。。しかも先日食べた台湾料理の担子麺がアリアリと浮かんで。。。(;´д`)トホホ…

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 第二講は多川俊映興福寺貫首の「春日権現験記絵の世界 四」でした。
 明治まで神仏習合で奈良の興福寺と春日社は一体となっていて(どちらも藤原氏の氏寺、氏神です)、日本は1000年そうやって「神仏習合」で来たので、「神」についても考えないと「ほんとうには分からない」というのが、多川貫首のお考えです。
 この「分からない」というのは、、日本人の心であるとか、日本人が本当に大事にしてきたものであるとか、そいういうもののことをおっしゃっているのかな、と思っています。
 そしてそれは、たぶん、細かく違いはあっても、世界のどの古代文化でもたいていの場合、共通している部分がある「なにか」についてのことなのではないかなと思うのですが。。
 人というのは、人知を超えたものへの憧れを、捨てることなどできないのではないか。

 仏教の勉強をしようと思って興福寺さんの文化講座に通わせていただいていたのですが、神道についてというか、奈良の神様(土地の神様)のことまでお話をしていただけるなんて、、ありがたすぎて呆然としてしまいます。
 
 東京から遠い奈良ですが、春日の神様への憧れが募ってしまいます(お話によると不信者には大変に怖い神様だそうです。。)。
 来月奈良に行くのは、春日大社へのお参りもしたいからです。
 春日の神様は春日明神と呼ばれますが、仏教に対応する呼び方は「慈悲万行菩薩」様というそうです。慈悲万行菩薩様はお地蔵様で、法相宗を護っているのだそうです。
 ご挨拶しなくてはいけませんね!
 でもなんか怒られたらどうしよう!

 こちらの「春日権現験記絵」の内容は、奈良の春日社に伝わる「不思議な話」を集めたもので、読んでいると楽しくなります。絵もついていて、絵本を読んでいるような気分にもなってしまいます(のんきだろうか)。
 ですが、この「春日権現験記絵」の中でも、春日明神様の姿など、「神の姿」はあまりハッキリとは描かれていないのだそうです。昨日読んだ部分でも後ろ姿で、顔は描かれていないそうです。
 仏教では仏の姿を仏像にしたり、絵にしたりしますが(でも初期の仏教ではやはり釈迦の顔は法輪などに置き換えられていましたよね。。)、神道ではあまりそういうことはされていません。神社のご神体は鏡だったりしますよね。。

 人間の中には、神(人知を超えたもの)の姿を見ることを畏れる部分と、一方でそれが表された仏像などを崇拝する部分とがあると、貫首はおっしゃっいます。
 それはけっこう、人間にとっての大きな問題なのかもしれません。
 
 この話を聞いていて、ジョーン・オズボーンの「One Of Us」という曲を思い出しました。
 
  神に名前があったらなんていうだろう?
  彼の輝きを前にしてあなたは呼ぶことができる?
  もしどうしても聞きたい質問があったら。
 
  神に顔があるとしたらどんなだろう?
  あなたはそれを見てみたい?
  もしキリストや聖者、預言者を信じなくてはいけないとしても?

 と歌う歌で、「神が、わたしたちのようにそのへんのバスに乗っているとしたら?」とも歌います。
 95年にヒットした曲で、すごく好きな歌でした(昨日まで忘れてたけど)。

 
 この曲を久しぶりに聴いて、神はわたしたちとまったく同じではないだろう、と思いました。この曲は神を矮小化させているとも言えるかもしれません。
 でも、テーマはそれではなくて、人々の奥深くには神(や仏)と同質のなにかが埋まっている(種がある)のではないか、ということを歌っているのかなと思います(そしてそういう人間という存在を慈しんでいる)。
 それをそうだと思わないと、たぶん生きるのはただの苦しみとなり、地上が「リアル・ヒャッハーの世界(マッドマックスみたいな世界)」になってしまうのではないかなと思います。
 それを避けようとするのが、わたしたちの挑戦なのではないか。

 
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テーマ : 仏教・佛教 - ジャンル : 学問・文化・芸術