身体が軽くなる場所

 昨日は金沢行きがなくなったので、夕方から新宿であった奈良興福寺の文化講座に参加してきました。月に一回東京で開かれている講座です。興福寺は奈良で1300年続く大きなお寺です。
 昨日は、行くのをあきらめていたので、行けてよかったです。

 加えて、昨日午前中に、バスのチケットのキャンセルをするために案内所に出かけ、払戻金を受け取ったのですが(数千円でも戻ってくれば嬉しいです)、道中すごく寒かったので、帰宅後、お腹を壊してしまったんです。
 なのでまた出かけるか少し悩んだのですが、思い切って出かけて、会場が近づくにつれ、自分の身体か軽くなっていくのを感じ、会場に入り、お話を聞いているうちに、もっと身体が楽になったのでした。
 なので、やはり行ってよかったのです。

 なぜ、そんなに身体の感覚が変わるのだろうと思います。
 なぜか身体が軽くなる場所というのが、あるように思います。
 去年の暮れに奈良に行ったときも、京都からの近鉄線で、京田辺市を過ぎたあたりから身体がどんどん軽くなっていって、大和西大寺駅で乗り換えのホームにいるとき、身体が完全に軽くなって、丸くて優しい波動に包まれたのを感じました(あやうく泣くところでした)。
 その空気感は、2013年秋に、修学旅行以来初で夫とツアーで奈良に行ったときに、すでに感じていたものでした。
 ああ、奈良に来たんだな、と、身体が言っていました。
 そして、とても穏やかで嬉しい気持ちになりました。

 どうしてこんなことになるんだろうと考えてしまいます。
 縁をいただく、ということはそういうことなのでしょうか。
 わたしなんかがいいのかしらという、いわば申し訳ないという気持ちや恥ずかしさ、恐ろしさもあります。

 これはわたしが毎朝般若心経を唱える「祭壇」↓
160311saidan.jpg
 恥を忍んで載せます。ドヤ顔0%です。つーかマイナス。

 去年撮った興福寺の五重塔の写真を大きくプリントして、額に入れました。観音様の写真と、春日大社でいただいたお札もあります。 
 でもその前に、滋賀県の阿賀神社太郎坊宮の写真と、舅の写真もあります。
 ごちゃまぜになっているとは思うのですが、これも絶対に外せないのです。

 金沢の夫の実家では、太郎坊宮にずっとご縁をいただいていて、舅は熱心にお参りしていたそうです。夫も子供の頃一緒に参詣していて、舅が般若心経を唱え終えるのを待っていたそうです。 
 2006年に舅が亡くなったとき、初七日に合わせてこちらにお参りしました。
 少しお骨を持って行って、頂上の本殿の近くでお骨を入れたケースを開けたと同時に、夫の手元のあたりで黒い蝶が出てきたと思っていたのですが、それは「黒い煙」で、実態としてはなにも出てはいなかったということもありました(その瞬間を写真にも撮っているし、夫も黒いものを見ていました)。
 そのような場所とのご縁も、夫と結婚したことによってあるのです。
 (わたしの父方も母方も3代以上武蔵野の人間ですから、実家や地元のほうで縁のある神社もあります)
 でも、わたしの身体が楽に軽く感じられるのは、たぶん「奈良」なのです。
 太郎坊山では、そこまで身体は軽くならなかったような気がします。ただ、5年前、わたしの父が亡くなった前後、ふっと姿が脳裏に浮かんで、わたしの悲しみを和らげてくれたのは、太郎坊山でした。

 こういうの、どうしたらいいのでしょう?
 あそこもここも、は、マズいのだと思うのですが、どこも、やはり大切な場所に思えます。
 
 これは、けっこう本気で「どうしたものかな」と思っていることです。
 並列させてしまってよいのだろうか?
 今のところ、わたしはそうするしかないかなと思っています。
 でも、むやみやたらに「新しいところ」を開拓しよう、という気はありません(もう充分です。。)。

 こういうことって、目に見えないものは信じられないという人たちには、バカバカしく聞こえる話かもしれません。
 でもとにかく、自分の身体や気持ちの反応を見てみるに、神社やそれと一体だったという日本の古いお寺には、なにか人間の生体エネルギーにまで働きかけをする、なにかしらの「機能」があるのではないかと思ってしまいます。
 それは、今も作動し続けているのではないのか。
 「装置」として、現役で、なにかがあるのだと思います。
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
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